2025年2月6日

 遠征あるあるだろうが、今回も忘れ物をした。充電コンセントがないとか、ポイントメイクリムーバー忘れたとか、あるいはその拭き取りに使うコットン置いてきたとか。前日から準備を怠らず荷作りをした、にもかかわらず、一つ二つやらかすものだ。今日は日帰りだしそんな心配もないだろうとたかを括っていたのだが、家を出る直前にショルダーバッグの整理なんかしたもんだから、ポラ用の500円玉と劇場カード類の入った紫の小銭入れをまるっと置いてきてしまった。よりによって、満券で入場しようと思ってた日に、である。

 それに気づいたのは、アーケードから少し外れたところの徒然舎という古本屋を出て、劇場に向かう途中のことだった。
 岐阜に着いて三省堂で新刊をチェックしていたら、東京への帰りのバスを待っている結城さんと、出勤前の鳥井さんが駅の近くにいるということで駅のエリックサウスで合流し、ミールスを食べた。結城さんを見送った後、鳥井さんと徒然舎まで一緒に歩いた。おそらく昨日の夜に少し積もったのだろう、ペデストリアンデッキ上の残り雪を避けながら名鉄の駅の方角に向かう。歩きながら投光を始める前の話を聞いたが、鳥井さんもまた石原さゆみがストリップと本格的に出逢う転機になっている、という共通点に驚いた。
 そういえば、4年前の初まさご遠征も寒い日だった。さゆみさん目当てだったのだが、週末でさすがに満席。下手で立ち見することになり、この場所はまさごの座席(?)で最も好きな位置になった。で、慣れない立ち見にさすがに疲れて休憩することになったんだったか。結城さんと劇場の外に出て空気の冷たさに驚き、(12月の初めなのに)なんか正月みたいな空気ですね、と言い合ったのを今も憶えている。おそらくこの週のどこかで鳥井さんも来ていたはずで、あの肌を刺すような冷たい空気と、それでいてなぜかめでたいような心地を味わっただろうか、と思う。
 本棚を一めぐりして眠くなってきた鳥井さんといったん別れ、満券ないやん、と気づいて落胆し、歩きながらまぁでも、せめてもう一回はここに来なさいというお告げか、と勝手に納得する。なんとなく、岐阜に来るのはこれが最後のつもりになっていた。前日は浜に安田さんを見に行ったのだが、まだまだいてほしいと思う人ほど、この業界をすっと去っていく。(休業ではあるが)白雪さんもその一人で、それが鳥井さんのラスト勤務週とも重なった。なんとなく劇場を楽しめない日が増えつつあった自分にとっても、なにかしら区切りの線を引くような、そんな遠征になるのではないかという予感があった。 

 しかし蓋を開けてみれば、そんな後ろ向きな気分は吹っ飛んで失せる一日だった。白雪さん、前回のまさごからしばらく観る機会を作れていなかったが、その間ストリップ以外の広いステージでの経験を血肉としてきたのだろう。どの演目も、トリにふさわしい異常なスケールの大きさ。たとえば去年の四月に同じまさごで観た『神話』と、今週の『てるてるぼうず』との、客席の巻き込み方の変貌。あるいは『JOKER』全般、リングの見立てをシンプルな土台として、贅沢に尺を使う構成と余裕に満ちたステージング。そして何より『三周年作』、あまりに多幸的なベッド〜立ち上がりにとどめを刺す。
 聞き覚えのありすぎるゴスペルソウルのイントロ、あー、あーあーあー、と下降しながら入ってくる四音のコーラス、破顔する踊り子。これだけでもう、涙が流れる。衣装が身体を離れていき、モノローグのようなふくよかな歌唱と、あー、あーあーあー、のコーラスが繰り返し立ち現れる。もしかしたら編集を挟んでいるかもしれないが、合いの手のようにホーンセクションが入ってくるブリッジを経て、サビで初めて曲名が歌われるのは4分35秒。決定的なポーズが切られるまでのこの長さが、永遠に続くかと思われる、異常に幸福な時間が持続するような感覚の重みづけになる。そして、繰り返し実感するのは、一糸纏わぬ全裸ってどうしてこんなにも良いのかということ(初出し週の期間は、構成や楽曲だけでなく衣装も迷っていたようだったと聞いた)。間違いなく、自分のストリップの経験のなかで最高といえる時間のひとつになった。これがひとまずの見納めなのか、と惜しい気持ちで心が満ちる……というのではなく、あのデビュー週からこんなにも大きい存在になって、と腑に落ちながら見送るような気分になる。

 また今週は、綿貫さんを初めてまさご座の広い空間で見る週でもあった。渋谷に続いて出している『BONNIE &CLYDE』、二週目にもかかわらず今後ほぼ演じることはないようだ。演目は(ボニーとクライドの、あるいは女性/男性の)役割交代という視座が、おそらくある程度読み取れるように作られていて、ただ自分は映画もミュージカルも観ていないということもあってディテールは想像するしかない。
本人が話すところでは背中を見せているときはクライドの役割を表しているというが、立ち上がり、たった一回切るポーズの後に、女性ボーカルの歌唱=ボニーの視座であるにもかかわらずボニーとして背中を見せて去るラストは、言われてみれば確かに意図を想像しうる演出だ(また原作のミュージカルがきっとそうであるように、全体を通して男女のボーカルが入れ替わりながら相聞歌的に耳に入ってくる)。
 他方、そういったストーリーに寄せようとする読解を抜きにすれば、普段よりもとにかく長い時間背中を見ることになる、という素朴な視点がおのずと浮かぶ。他の曲と同様ミュージカルからの選曲なのだろうM2、背中を向けてのキャッチーな振付が多く、もし衣装でのポラだったらこのポーズをお願いしようか、というものがいくつも記憶に残る(ビリーザキッドみたいになるのさ、という歌詞のあとに背中に親指を立てて気取ってみせる、当て振りとも言い切れない振付とか、とても様になっている)。かように背中はさまざまなことを語る……と思ったのもつかのま、むしろ背中は身体表現において、語りえないさまざまを暗示する典型的な部位ではないか、とも思い至る。
 ボニーとクライドは本当に類型的なキャラクターとして表象され、受容されてきた人物だろうが、綿貫ちひろという演者の個別的な身体を通してナラティブが展開されるとき、血の通った、具体的な手ざわりをなぞれているような感覚になる(ドラマや小説で、優れた解釈者の翻案はごく素直に受け入れられるのと同じように)。だがそれは、なるほどこの演出はこういう意味ですね、と答え合わせに満足して終わる鑑賞経験ではない。銃声のなか、暗闇に消えていくボニーの背中を見やれば無数の語りえなさ、理解しえなさ、人はみんな色々あるという実感(それは真理には違いないのだろうが)に、むしろ突き放されたかのような隔たりすら感じられる。良い悪いではなく、他者を理解していくプロセスのうちには、自身との異なりや隔たりを認識し、包括的な理解のしえなさをこそ受容することの重要さを知るステップがあるはずだ。正直に言えば、人のことをわかったつもりになってたくさん失敗してきた人生だった。劇場では、他者とともにある場で、間接的にではなく直接的なかたちで、他者の生きられた身体の現前に、否応なく出会う経験が繰り返される。それによって内省したくなるような気分になったり、慰められた気持ちになったり、どういうわけでそんな機会が巡ってくるのか。自分勝手な考えに浸っているようでもあるが、自身が変容していくことを見つめ直せるのは、身体的な知覚とその認知を通じてストリップが与えてくれる、この豊かな時間ゆえだろうと思う。

 二回目五番からは、出勤してきた鳥井さんが投光室に入った。『てるてるぼうず』、雨音のSEが入ってしばらくの後、本舞台中央で傘を持ってやや上を見上げている白雪さんの真上で、ちょうどいい頃合いで水色の照射されたミラーボールが回り出す。場面が転換した、と合点する。おととしの十一結、『あげこのくじら』冒頭を思い出した。水色系統のライティングで衣装の色を飛ばしたオープニングの後、あげこさんが身体を起こすとともに衣装の青みが浮かび上がるように色味を減じていく(操作の詳細はわからないが、感覚としてそうだったので、そう書く)投光に感激したのだった。鳥井さんを、たとえば道劇の森さんや平山さんほど個性の突出した仕事をする投光さんと感じたことはないのだが(道劇とまさごとでは、そもそも見にいく回数が圧倒的に違うというのもあるにせよ)、とにかく献身的なオペレーションをする人だ、という印象は今日も揺るがない。

 その鳥井さんによるキャスト紹介、面妖な「ありがとうございましたぁ」三唱アナウンスで、三回目の幕が下りる。うまくいけば次の綿貫さんまで見れそうな気もしたが、予定通りこの回で区切りをつけて劇場を出ることにした。最終回開演の間際、ミッキーさんに引換券と靴札をお願いしていると、誰かのアテンドなのかぞろぞろと女性グループが入ってきた。忙しいところ見送りに気を遣わせるのもと思い、簡単に会釈して外へ出る(一応テケツにも)。
 居酒屋形態のしょうもないPRONTOで、とくに食べたくもないつまみをレモンサワーで流し込み、閉店間際のアスティ前で夜行バスを待った。連日の雪予報のところ、暗くなってからも天候はぎりぎり持ちこたえていた。乗車客の流れに整列していまや乗り込もうというとき、バスとバス停ホームを覆うルーフの間から、見計らっていたかのように雪が落ちてくる。ほんの少しの時間、その狭いすき間から、雪の舞い込んでくる方を見上げていた。

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