
西荻のSingで、いつもより早めにお店を開けてサラダランチプレートを出す、とインスタで見た。今朝は早起きしすぎてしまい、中国語を勉強したり本を読んだりして時間を潰したのだが、潰しきれずに家を出た。プラス一時間は費やせるだろうと思っていたジュンク堂が、コピスの全館休館に伴いまさかの休みで、あとけっこう寒くて、午前中のうちになんだか気が進まなくなってしまった。
いちおう東西線に乗りはしたものの、西荻でドアが開いても全く立ち上がる力が起こらずに観念。どうせ週末行くだろし、とそのまま九段下に運ばれる。DIXANSで原稿に関係する本を読んだあと、神保町の古書店で最近欲しいと思っていた本の、比較的綺麗なのを見つけた。あとがきに私(翻訳者)はこの分野の専門家ではない、とあり、そうか、たしかに脚注と事項索引がついていないのが気になるな、と数分立ち止まって決めかねていたところに、番台で店主が食べ始めたとおぼしきカップラーメンの匂いが漂ってきた。こうなると、今日はちがうのか、と本を棚に戻すしかない。
こういう噛み合わない日というのは劇場でもときどきあって、どうして思ったほど楽しめなかったのか、ある程度は避けられたのではないか、と要因を列挙して自責したり、他責したりしてしまう。しかし、噛み合わないなりに諦めをつける(カップラーメンの匂いが漂ってきた時のように)とか、あるいは最近友人との話題にも上るが、前もって「これ行こう」と決めずに偶然性と気分に身を委ねるとか、もっと固着しないで済む、ある同一性から外れたあり方は可能なはずだ。いま書こうとしている原稿はそういう話になる見込みで、ただ現実的な実践における問題系とあまりに重なる部分でもあり、なかなか詰めることができず締め切りを大幅に過ぎてしまっている。ともかく自分が、これまでとは異なった他者関係のあり方を手探りしている現状のもがきと同期するような、そういう文章になるだろうし、そうなればいいと思う。