朝、身支度をしながら、東浩紀が若いビジネスマン向けのメディアのインタビューに出ている動画を見ていた。若い世代はコスパ/タイパ思考に取りつかれる問題をどう考えたらいいのか、という内容。若年者の質問に答えるという構図となると東がもう縦横無尽に話しまくってて、さすがに喋りは面白い(口数の多さ、ターンテイキングの出来なさには相変わらず辟易するが)。
若者がコスパを意識しないように、とメタ認知を働かせて動こうと思っても、後から考えれば(効率的な面においては)無駄で愚かなことしかやっていない。自動的に若い時ってコスパは悪くなってる、だからそれでいい、というクリティカルな回答。そして老害とはあらゆる予測が働きコスパがよくなってるということだ(つまり、それが中年の課題でもある)、と続く箇所は、四十(しじゅう)の人間の実感をもって納得がいく部分だった。
ここ3年くらいで、同世代の仲のいい人間がなんだかんだ増えた。仲良くなればそれなりに人生の話もするわけだが、その中で意外としょうもないなと思ったり(逆に自分のしょうもなさを開示しようかなという気にもなる)、かたや予想外の人生を送っていることを知ったりする。要するにだれもが不完全だし、「みんないろいろある」としか言いようがないのだ、という身も蓋もない「真実」が腑に落ちる。また隠すとかでもなしに、ごく親しい間柄においてもわざわざ共有しないことなど無数にある。あなたは、私の中で像を結んだあなた、の側面からしか認識できない。当然のことだ。なぜ相手のことを何もかも判ったような気になっていたのか、と恥じ入る。
しかし、東の話を聞きながら思ったのは、自分より幼く愚かしい、年不相応な人間はいないと考えるのはやめた方がいいだろう、ということだった。私はそれなりに中年らしさを備えて生きている。簡潔にいえば、自らの実存において価値あるものの判断がそれなりにつくようになる、ということだ。いまだにしょうもない失敗もするが、それは年不相応というよりはむしろパーソナリティの特性に起因するものと切り分けてもいい、とひとまずは考える。同じ世代の、安楽に過ごせるコミュニティに落ち着いて他者と共存することができているのだから、それなりにポジティブな意味を込めて、齢を重ねている、と思っていいのだ、と。