
角川ソフィア文庫の河合隼雄『カウンセリングを語る』を読んでいる。もともと講談社+α文庫の二分冊だったのを合本したやつで、心理職志望者向けの講演をまとめたものだと思うのだが、広くコミュニケーションのむずかしさを扱った内容で身につまされる。
クライアントの行動や言動は、自分の心におさまりきらない、理解しがたいものであることがしばしばある。それを、同僚かなんかに話して心のざわつきを収めるのではなく、どれだけ自分の中で、苛立たずに抱えておけるかという「器」の話。セッションと次のセッションの会わないでいる間、クライアントの方も、またカウンセラーの方でも、おさまりきらないものを抱えてざわつきつつも、心が動きつづけているということ。
これは自分の日常でも似たようなことが起こるわけで、たとえばなんだか理不尽だとか不快だとか、なんでもいいけど気に障る物言いがあり、なんでそんなこと言うのかと感じたときに、価値判断のラベルを貼る手前の地点を、いつでも立ち戻れる拠点として措定しておく必要があるのかもしれない。私たちは心理職ではないし、守秘義務が課されているわけではないのだから信頼する他者に相談することはもちろんあってよくて、会話のなかで(問題の)相手との関係性や彼我のパーソナリティを含めた視点が客観化されてくる、というメリットがあるだろう。
他方、短文SNSで個人的ないさかいに関する愚痴のようなポストについて、明らかになんの関わりもない人間が口を出したり、リポストやいいねで党派的に支持を示そうとしたり、そういうのをたくさん見ている、というか見させられている。河合はツイッターが生まれた翌年に世を去ったが、ポストする側についても外野についても、このような心の収めかたを是とはしなかったはずだ。