のばらさんの話、黒井さんの話

他者に気さくに助けを求められない人間なので、セルフケアツールとしてツイッター以外に書いて落ち着く場所を準備していたものの、結局ここは劇場での出来事やら演目を観ての感慨やらを書き散らす場所に成り下がってしまう予感がしてきた。いや、むしろ成り上がったのか…?

1結、萩尾のばらさんの周年作『JOY』のことをずっと考えていた。

1月に初見だった演目の中では浅葱アゲハさんの『himico』とともに個人的に訴えてくるものがあり、さっさと感想なりなんなりまとめればよかったんだけどちょっと時間が空きすぎてしまい、途方に暮れている。

M1.3.4(とくに3~4の流れにおいて)の選曲の意図、リズムの気持ちいい部分を貪欲に、ほぼ余さずといっていいくらいに拾ってくる振付(一例として、「綽々…」、という歌詞に沿って、肘を支点に上肢を動かし、それとは異なる方向に身体を揺らしながら近づいてくるコレオなんかは、しゃくしゃくしているな…綽々って語彙を踊りでオノマトペ的に回収することあるんだ…といたく感心してしまった)、表情含めたステージングの諸要素。M3では、もうこれストリップのことだろうとしか思えない、容易に劇場での経験と重ね合わせることのできるライン(「五感を持っておいで」など)が頻発する。

いうまでもなく、劇場にあることにおいて本来的な今ここ性、刹那性に身を浸す踊り子と観客がここでは祝福されている。

のだが、この演目の主題を一事が万事、刹那性へと収斂させてしまうには、タイトルに冠されたM2がどうも異様な気がする。

死ぬまでドキドキ/ワクワクしたいわ、に至るまでの歌い手の言動があまりにアンビバレントだし、また、運命と偶然性というスト客としてはわりと見過ごせない(と個人的に感じている)テーマに話が差しかかってくる、ということもある。

少しここで話題を変えてみようと思う。

話の流れで初めて道劇に行くことになった8中のある日、まず観るべき踊り子さんとして、友人に宇佐美さんの他に黒井ひとみさんを薦められた。

友人は、渡邉さん(私)は遠からず黒井さんに「出会う」だろうと思っていたらしい。

「出会う」というのは、経験的にいえばビビッときちゃって、頭にお花が咲いちゃった、ということだが、もうちょっと知的な興味が動機づけとなってそこに至る経路もある。

私はここ数年来セクシュアリティやフェミニズムを大きな関心事としているので、そういう意味でもその日、黒井さんについての話をかなり興味深く聞いた。ストリップにおいて自分が黒井さんに「出会う」ということには、必然性があるようだった。

しかし一方で、「出会う」ということは、理でもって説明不可能な偶発事として、なんらその必然性がないにもかかわらずめぐり逢ってしまうということだ。

さゆみさんを二度目に観た10結道劇では思いもよらずそういうことが起こったし、また、黒井さんとの「出会い」も、想定していたのとは全く異なった立ち現れ方でやってくる。

多くを語ることはできないが、私は私にとっての重要な他者(であった人物)を想起させるとあるリアリティ演目で、黒井さんと「出会っ」たのだった。

超時間的な記憶の行き交いと、過去が裁ち直されることを実感しながら、ただその場にいた。

ルサンチマンだといわれればそれまでだが、しかしそれ以上に充足した自己変容の実感があり、ともあれ演目を観ることによって思いがけず新たに編み直された経験のメッシュワークの上で、想定とは全く異なる文脈において、間違いなく私は黒井さんに、めぐり逢った。

だいぶ偶然性の話に脱線してしまった。『JOY』に戻すと、M2に垂直に串を刺してみるとまた別の見通しが出てくる。

演目のキーとなるM2を歌う歌手はその後、キャリアに残る楽曲をリリースしていくけども、M2と同様に、その瞬間が良ければいい、ということは一切歌われていないし、だからといって日常をていねいに生きることに立ち返ったりもしない。そこでは後悔や傷跡や離別や悲嘆、そして究極的には死を内在的に含んで駆動する、逃げ場のないようなむき出しの生が歌われる。

自然の摂理として樫の木が揺れることには、なんの意味もない。無底。それなのに、樫の木が揺れるのと同じく、のばらさんが盆で、その有限の身体をもって天を指しつつただ廻り続けるとき、不意に、この場にあってその踊りを共有できるということに、言いようのない喜ばしさが込み上げてくる。

…なんかまとまらないけども、これは気楽に書く日記なのでそれでもよいこととする。

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