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「現代思想」特集、<友情>の現在の前半を読む。佐川さんのアセクシュアル/ノンバイナリー視点からの論考には、友人の実践に関する事例が取り上げられている。その節友人からの聞き書きをもとに構成されているが、単なるエピソードの羅列に終始しているわけではない。その規範的なセクシュアリティや恋愛伴侶的関係性に収まることのない親密性の経験の記述についても、狭い紙幅であろうと、複雑さと個別性をとりこぼさない意志を感じる手つきだった。
セクシュアル・マイノリティの経験は多様であり一様ではない、ということは判を押すように言われるし、この論考の締めくくりでも同様の文言が登場している。ただ特異なのは、日本においてアセクシュアルという概念が、おそらくは性的忌避の側面を中心に受容されているであろう中で、そうした受容形態におさまりきらない実践者として、友人の実践が紹介されているということだ。その経験の語りと、それを聞き書きした佐川さんによる記述の手つきは、親密な関係性にかんする議論を厚みのあるものにしている。

また、ひらりささんの短いエッセイも、個別的な「友達関係」における多くの失敗談から、借り物ではない結論が導き出されていて興味を惹かれた。「純粋な友達」の定義を捨てたはずの筆者によって、末尾で再び友情とは、と定義がなされてはいるが、それは文章に幕を引くための便宜で、重要なのはその前段で語られる実践の、「こう」とは言い切れない度しがたいありようの方だろう。

ひらりささんのエッセイを読んで、IUとヨ・ジング主演の韓国ドラマ、『ホテル・デ・ルーナ』を思い出した。現世に縛られて千年もの間生きているマンウォル(IU)が、かつての同胞が新しい人生においても上手くやっているところを遠くから見つめて、こう言うシーンがある。

「다행이다. 정말 다행이다.」

「よかった、本当に」という、深い詠嘆を含むニュアンス。韓国語で最も好きな言葉になった。다행は漢字で書くと、「多幸」になる。

ある他者との関係性は、どうであれば持続した状態にある、といえるのだろうか。それは、互いが生をよきものとして享受していく/していること、あるいはそういう方向へ向かってどのような歩みをとっているのかどうかを、折にふれて気にかけている、という状態ではないだろうか。
そうであってこそ、他者が日々見つけるほんのささいな幸福についてすら、てらいなく다행이다、とか良かったね、という言葉を胸に思い浮かべたり、声をかけあったりすることができるのだろう。

他者との関係性のありようを考える時、互いに気にかけていられるかどうかということは、より具体的な親密性の濃淡でそれをはかるよりも、感覚的にはしっくりくるラインのように思う(恋愛伴侶的な規範から外れた関係性について適応しうるものでもあるだろうし)。他方、「互いに」気にかけているかどうかという状態は、ある程度相互に伝わっていなければ成立しないことだ。そうした配慮の行き交いが不全に陥っている、と一方あるいは双方が認識せざるをえないようなときがどうしてもあり、必要に応じてその関係性のメンテナンスを講じたり、講じなかったりすることになるのだろう。

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