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人はいつか居なくなるという摂理が、にわかに解ったと思えた日のことを憶えている。

誰しもが通過するありふれたことではあるんだけど、生死が喫緊の関心事として意識に上ってこず、おのれ自身の本来性に思いをなす暇もなく日常を過ごしていると、そんな契機を経たというのに、多くの時間、自分は人の生き死にを想わず存在しているということに嘆息する。

今からは想像もつかないと思うが、幼稚園から小学校低学年のある時期、相撲に異様に執着していて、ある本で力士ぬいぐるみの作りかたのページを見つけた私は、母にこれが欲しいとねだった。

ミシン台の前で、黒のフェルトと束ねた糸とで、まわしと前みつを作っている母の横にすわっていて、そのとき突然わけもわからず悲しくなった。なんでよ?という顔をしている母に宥められながら、余計に泣いた。この瞬間、自分の時間=生命を割いて何かを私に与えてくれている他者を感じ、そしてその他者がいつかは存在しなくなってしまうのだということが、愛しい(いとしいでも、かなしいでも、どちらに読んでもらってもいい)こととして実感されたのに違いなかった。

そんなことを、未見だったさゆみさんの配信アーカイブを(ポラで本人に詰められて)見ながら、自然と思い出した。

先々週にさゆみさんの配信で、17日に1日だけ道劇に乗るということが決まるのを見ていて、そこからの約10日間、その一事を中心としたかなり色々なできごとがあった。それらは、公の場で綴るにはあまりに個人的なエピソードの一群であるし、またある程度開示したとしても、おそらくこうした文脈を私と(部分的に)共有している二、三の人との間においてしか、それは意味を成さないだろう。ともあれ、一連の顛末の最後に、ほんらい再現が不可能な場であるはずの劇場をめぐる体験が映像によってある意味補完され、またそれが幼い頃の記憶と結びつくものでもあったということが僥倖のようにも思えて、配信のなかのさゆみさんを観ていて少し涙が出た。

しかし、ストリップの文化に関わる場(空間に留まらない意味合いを持ったものとしての場)においては、他者と共在し何らかの自己変容と生まれ直しを促されるような契機…自分にとってのかけがえのない時間が現出していて、そこにおいて確かに生きているという実感(それゆえに死についても想わざるを得ない)が、どういうわけでこんな考えられないような頻度でもたらされているのだろうか。そしてスト客として長くその場に溶け込んでいくうちに、そんな充実の予感と実感すら、いつかは摩耗していってしまうだろうことを、今は想像したくはない。

明日は上野楽日、来週後半にはミカドにアゲハさんが乗るので、友人や初見の方と複数回観に行く予定。

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