6/29, 7/1-2

6/29
もう十日近く前の話になってしまったけど、東小金井で劇団「どくんご」のテント公演を見てきた。結城さんが受け入れとして長く関わっていた(そういえば武藤さんも)という劇団で、東京のみんなにも見てほしい、と知り合ったころから話していた。今度のツアーが最後になるということで、キンちゃんとヨシタカくんとともに誘われていたのだった。
まず開演前に、「(これからいろんなシーンが続くけど)話とか、ないから。好きなようにみてください」という断りがある。その前口上があったからというのもあるだろうけど、実際お芝居を見ていて、「お話」としての意味づけを行いたくなるような時間ってなかったと思う。そういう意味で、舞台芸術を見慣れていない人にとって、格好の入門の場となってきたのだろうと想像した。ゲストのゴーレム佐藤さんの、パンチのあるインタールードが印象に残る。目の前の最前席には外山恒一さんが座っていて、ときどき体を揺らしながら笑っているようだった。
後半に進んでいくにつれ、テントの本舞台(?)がわの幕が部分部分で上がっていき、外の風が入ってくるようになる。台詞を話し、大げさな振付を踊る演者の口からは、白い息がこぼれる(夏至の夜は小雨が降って、ずいぶん気温が下がった)。後方の幕はいまや完全に取り去られ、テントの中と夜の公園との間は、きゅうに境目がなくなる。少し離れたところから通行人が物珍しそうに中を伺っていくが、誰もが足早に通り過ぎていく。立ち止まってしまえば、本人も知らぬ間にお芝居の登場人物になってしまうのだ。劇は、さっきまであんなに明るくふざけた空気だったのに、よく知っている歌のしんみりするようなカバーで幕を閉じた。

7/1

中村隆之『野蛮の言説』を読み終わったが、とてもいい本だった。高島さんがずいぶん前からTwitterで薦めていて、もっと早く読むべきだった。岩波新書で出ている平野千果子『人種主義の歴史』も包括的な入門書として面白く、かなり類似したトピックを扱っている。ただ中村さんの本のほうは日本における20世紀以降の「闇の奥」としての<野蛮の言説>の展開を射程に入れており、人種差別(と障害者差別)について、より身近な問題から考えはじめる足がかりを提供してくれている。この上半期はイスラエルとパレスチナ情勢を中心とする世界の状況について、単発的に関心を向けて終わるのではないありかたを悩みながら類書を読んでいた。『野蛮の言説』の終章では、ランシエールの教育論を引きながらそれに応えるようなメッセージがあり、見透かされている気分に。

7/2

今年のKPOPをほとんど聴けていないが、上半期ではTripleS『Girls Never Die』が良かった。もちろん、ポジティブなメッセージを前面に出すようなアイドルの楽曲を、真に受けてしまうような時期はとうに過ぎている。それでも音源を聴いていればスロジョドイロナアア(倒れても立ち上がる)、Girls Never Die 絶対Never Cry、といったフックはメロディも含めて劇的に響いてくるし、終盤のタシヘボカ?も強く印象に残る。もう活動は終了しているので音楽番組の映像もたくさん上がっているが、それよりもOfficial Dance Ver.が白眉だった。


長い廊下?が後方に伸びているコンクリートの建物の手前で、おそらく夜間の撮影。24人全員が黒基調のストリートっぽい衣装で、オレンジ裏地のMA-1を着ている子もいるのだが、モノトーン基調といっていい。上後方の照明は終始つけっぱで、あとはおそらく上前方からムービングの照明が一定の間隔で照射されている。24人を画角に収めるためにカメラは大きく引き、前後移動中心の撮影。ただ、意図的にだろうが画面はほぼ常に不規則に揺れていて、照明が当たっている時間ですら、メンバー達がどんな表情をしているのかはあまり捉えることができない。衣装や撮影環境のディレクションから、基本的にはこのビデオでは、ひとりひとりパートを歌うメンバーを映す音楽番組での撮影方式とはまったく違い、(少なくとも24人全員が振付を踊るシーンでは)群舞の一体性を強調し、メンバーの個別性をある程度捨象しているといえるだろう。
他方、このビデオ中でただ一人、アップでの表情が映るメンバーがいる。2:40あたり、タシヘボカ?直後のサビ、センターで踊るキム・ナギョン(BIBIの妹なんだって)がそれで、また2秒ほどのアップに続く引きの映像では、この映像のなかで初めて上前方の照明を落とし、上後方からの逆光のみの照明演出になっている。この落差を伴った処理はナギョンのインパクトを強める効果があると思うが、イントロの四拍の即興っぽい振付や、ダンスブレイクで最も気になる踊りをしていたのがそういえばこの子だったな、とも思い出す。踊りがいいなと感じたことと、親近性を高め、個別性を際立てているであろうビデオの演出効果と、どちらが自分にとって先に受け取った認識であるのかは、もう分かりようがないが。補足するなら、このアップのシーンでナギョンがパーカーから肩をはだけて踊っていることも、その個別性が立ち上がってくる要因になっているのではないか。肩だろうが、背中だろうが尻だろうが、髪の毛や指先ですら、その人の身体のある部分が個別的な「顔」になりうるということを、劇場ではいやというほど経験する。そして、その個別性が好ましく感じられないようなときというのは、ないのだ。

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