都営浅草線から乗り換えの日本橋で丸善に寄ろうと思っていたら、そのまま東西線のホームに着いてしまっていた。代わりに九段下で降りて東京堂書店で新刊を買った後、行きつけのカフェを目指してダイソーの角から靖国通りに戻ろうとしたら、向こうから道幅いっぱいに軽トラックが入ってくるのが見えて、文房堂のほうを回って明大通り沿いの信号を渡る。
お茶の水の心療内科に通っていたのが多分7〜8年くらい前で、そこに行く必要がなくなり(九段下の、べつのクリニックにかかることになっただけなのだが)、久しく明大通りを上っていなかった。坂を上がりはじめて、左手に文庫専門のお店が目に入った。20年くらい前、上京したばかりの頃に一度入った、ような記憶が、おぼろげながら生じる。中をのぞくと学術文庫の背表紙が少量並んでいるのが見えたので、足を踏み入れた。
よく行く靖国通りの、人文系の文庫・新書の揃ったお店と比べると、だいぶ傷んだ状態の本が多い。ただ中公新書と岩波新書だけは膨大な量が並んでいて、あまり見かけないようなのもある。欲しいかんじのはそんなにないかなと棚を見ていたら、お客さん、と声をかけられた。左右の入り口の中央奥、本来なら通り抜けできそうな位置に丸椅子が置かれていて、おばあさんが座っている。中央の本棚に並置された卓の上では白い回転ファンが回っていた。そういえば空調が効いていない。
これね、岩波新書の目録なんですけどね、欲しい本があったらね、ここページが書いてありますでしょ、それをめくるとほら、これで調べられるんですよ、毎年岩波さんがもってきてくれるんですけどね、よかったらお客さん使ってくださいね、そういえばそろそろ夕刊持ってきてくれる人が来る時間なんだけどまだかしら、夕刊もらったらごはん作らないといけないんですよねえ、今日雨だから人通り少ないですねえ、ほら、いつも向こうの古書会館で仕入れをするんですけどねえ、
という調子でえんえんと続く話に相槌を打ちながら、自分が病院で働いていたときのモードが起動しているのに気づく。コミュニケーションの題材は想起を要するものごとではなくて、現前の視覚・聴覚情報から入ってくるものごとを中心にする。岩波新書、回転ファン、外の雨もよう、救急車のサイレン、古書会館。お互い全球キャッチしているわけではないにせよ、ボールを投げれば返ってくるという実感は、確かにある。しばらく話していると、お客さんにあげたいものが、と少し向こうにある古書街パンフレットを取りに行くおばあさん。外出のときは二本の一点杖を使うようだが、お店のなかでは本棚と、そこに積まれた未整理の新書の山を伝いながら移動する。ついつい介助してしまいそうになるが、一点杖レベルの歩行ができるのだから、と思い直す。考えてみればこの新書の山も本棚も杖のように身体の延長になっていて、ひいてはお店自体がおばあさんの住まう身体として作用し、相即であるかのように存在している、のかもしれない。
20分強ほどコミュニケーションをとっただろうか。夕刊を持ってくる人も来ないし、ほかの来客もなかった。カフェの閉店時間も迫っているので、お暇することにした。実家にあったような気がするが、比較的状態のいい学術文庫の『荘子物語』を買う。あら〜これはきれいですね、でもお値段はそれなりにするわね、本のカバーがあったと思うんだけど、この新聞紙の下あたりに、あら〜どれだっけね、あっここにビニール袋がありますね、ということでビニール袋に入れていただいた。車通り多いからお気をつけてくださいねと見送られて、ふだん踊り子さん達にそうしているように、自然と手を振ってしまった。
ここにくる前は朝から少しも気分が上がらなくて、人って誰も話を聞いてくれないし死んだ方がいいな、という、調子悪い時のいつもの「結論」にどっぷり浸かりながら歩いていた(少し頭が働けば、そんなことはないだろう、と言い返せるのだが)。完全にこちらがケアされた気分で店を出たのだが、もちろん、おばあさんもこちらの話をうんうん、と受容的に聞いてくれたわけではない。自分の臨床経験においても、いわゆる傾聴は万能のものではなく、場合によってはいびつな愛着を生むものだった。人の、意思のサインを捕まえるのがものすごく苦手だが、なんだろう、でもそれに直面する意志に開かれていたほうがきっと楽しいよ、ということかもしれない。
夜、この世で最も話を聞いてくれない人間こと母親から電話が来て、近々仙台に帰ることになった。遺書作成がいまの最大の関心らしく、連絡が頻繁になった。いやだ。戦(いくさ)の予感!