2/20 シアター上野

池袋のミカド劇場で激安価格になっている限定回数券を購入してから、楽日の上野へ。ぎりぎり早朝料金。

2中初日ほどのむせかえる圧迫感はなかったにせよ、長時間の立ち見は避けて2回目まで。

この劇場で立ち見となった場合、特に演目後半に入ると前下方の視覚情報がほぼ遮断され、ポーズベットを切る身体のダイナミズムを十全に受け取れる環境ではなくなってしまう。ただ表情とか、伸ばされた脚のつま先らへんとかを観ているしかなかったりする。

マジレスすると早く来て座ったら良いのではという、身も蓋もない話ではある。

黒井ひとみさん、いつも演目を観ているとき、下瞼とほぼ同色に見える、ピンクの目の下チークが本当に魅力的だと思っている。私は面長なので、目の下チークは真似できないんですが。前々回の日記でもふれた『妥教師』は残念ながら仕舞っちゃって…ということだったが、楽屋の出入りが激しくなっている一幕で不意に仕切り布がめくれ、そこに立ち尽くしていたマネキン君とは再会できたので良かった(?。

『エスケープ』はとにかく何度観ても良い。楽日だからなのか何なのか、10-11日に観た回よりも気持ち大きめにカーテンを開けて姿見の前に立っていたり、思い切りが前面に出ていたような印象がある。選曲と主題の接続性には完全に納得するしかなく、こうした演目は無論、自己の何らかの過去を投影して没入する、つまりストリップの文脈から取り出して同一化するという見方ができて、また容易にそうさせられてしまう。他方、ラストのM5では、俗な言い方をすれば過去の記憶を何度も「こする」という行為が戒められていたはずでもあった。

思いつきの日記で、いま咄嗟に筋の通った風のことが言えるわけではないにせよ、『エスケープ』を繰り返し観るということは、何度でも帰ってきたくなる、再現したくなる記憶というのが自分のいかなる欲望(=欠如)によってそうであるのか、ということを考える取っかかりの一つでもあるような気がする。

余談だが、おとといまでは結城さんが毎日上野にいたので、「当番制なんですか?」と面白いいじられ方をする。

冒頭で、立ち見だとベットで情報がぜんぜん入ってこなくなる、ということに触れたけども、宇佐美さんの『アブダクション』のポーズベットはそうした条件を突き抜けて、その強度の前にこっちの身体が釘付けにさせられてしまう。1結の初見では選曲の先入観からか自分の常識の範疇におけるベットとはだいぶ異質なものに感じられて、遠巻きにそのバイタリティを感じていただけだったけど、今となってはバシバシ「入って」くる。

『positive』は去年の夏に1度観て以来だが、全く印象が新たになった。新たになったというのは、半年前のことだから記憶の問題もあるし、何をもって美的経験とするのか、というストリップに関する鑑賞態度の変化もある。しかし一番には、私のこのからだが、ストリップを観る経験を繰り返すことよってそれ以前とは変容してしまった、という一事においてだろう。

それが演目を観ていて自分のからだに確かに起こっていることとして了解される契機とは、宇佐美さんの身体のうごきがリズムを捉えているのを共に味わうことであったり、(自分が宇佐美さんのいる香盤に通うことで)よく見かけるようになった常連さんが隣で叩くタンバリンが密やかにリズムに華を添える、その微細な手つきに気づくことであったり、また個人的に思い入れのあるM2において、自分の歴史には半年前まで居なかったこの人が、楽曲の表題通りにこの目前の世界を鮮やかに塗り替えていくのを実感するということであったりする。

M2のサビではフッフー♪、という囃しが繰り返し入るのだが、この誰も声を挙げることをよしとされない場でネジが外れちゃった人が出たのか、でもそれも仕方ない…と一瞬思い違えをしてしまうくらいに、こんな小さな劇場にもの凄い熱を降らしていて、素晴らしいとしかいいようのない時間があった。

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