2/24・2/26 池袋ミカド劇場

 

ミカド。24日から5日間アゲハさんが乗る。

前週買っておいた無料券(無料券ではない)が、まるまる2枚ある。

24日は仕事終わりに、かいわい編集部のスカーレットさんと。

26日は3回目に、フェミニストのとれたてクラブさんを初劇場に誘って。

 

 

アゲハさんの演目を観るうえで、主に終盤差し挟まれるエアリアルティシュー/リング(フープ?)は、避けては通れない構成要素になる。他方で、たとえば立ち踊りのなかでティシューを扱うアゲハさんの一連の動作だとか、またストリップにおける「わざ」の形式として自分自身がようやく慣れ親しんできたベットのシークエンス(ポーズ、表情、身体のあらわれ)を観ているときの、格別かつ説明不能なたぐいの感情のこみ上げは、あくまで現時点の経験においての話ではあるけれど、エアリアルにおいては比較的起こりにくい、という感触がある。

 

もしかするとエアリアルは、自分自身の運動に関するリアリティを他者に重ねて観察し、いわば運動共感的になぞる(模倣する)ような見かたでは、身体的な協調を来さないのかもしれない。あるいは、演者の動勢と音楽的なリズムとの紐づけが自分の呼吸とうまく合わせられない時間が生じているということや、より現実的には、手数なりコマ数なりの多さといった視覚的要素のために情報を処理しきれていないのかもしれない(自分自身の、立体把握の弱さという認知特性に拠る部分というのは常にあるが)。あとから記憶を再現しようとしても、だいぶ大味なイメージしか出来上がらない。たとえば減速してきているリング上から、アゲハさんがスピンのために片脚を下ろして再接地し、二度、三度、と地を蹴る仕草なんかは、わりと残っていたりする。よりよく憶えていられること=再現性が一義的な問題なのかという疑問もあるが、やはり演目を観ていて強烈に打たれた場面というのは、短いカットの映像として思い出すことができるので…うーんどうなんだろう。

あるいは単に、エアリアルの見かた、鑑賞のしかたみたいなものがわからないという不安があり、それが手続き的に分かる方法を、型(かた)として求めてしまっている状態かもしれない。かもしれない、かもしれないばかりで、はっきりしないやつだ。

 

で、とりあえずより天井が高くて、広い場所で…と思っていた矢先に、しんぶん頂いてスケジュールが分かって、春爛漫のころには京都に居ることになりそう…今回は嵐山いきたいな

 

 

 

さいごに余談を2つ。

 

新作の、PUIPUIしてるやつ。

初見の回まじめに観ていて、でもなんか、こんなメルヘンに振った衣装も襟足ウィッグも初めて見る…と戸惑いながらポラ列に並んだらキンスキーさんが「いやー…かわいすぎて限界ですね、無理です…」とすごいふにゃふにゃした笑顔でおっしゃっていて、いや自分…アイドル業界に長く浸かってああでもないこうでもないと考え込んでいるうちに、他者の姿かたちを「可愛い」と素直に感じることまでキャンセルしていたのか…と思い至る(たとえば韓国アイドルの容姿をさす言葉として、「顔天才」という意味のかなり気持ち悪いスラングがある)。またひとつ、呪いが解けた感じがする。次の日かあいいって言えた

そのあと3人でご飯食べてるとき、なんかの流れで、今日ある演目に合わせたマニキュアしてて、でも自分で説明したくないんですよね…という話をしたら、「結構めんどくさい…」とそっけなく言われて泣いちゃった。

スカーレットさんにも徐々にひどい(事実)ことを言われてきているような気がしてるけど、キンスキーさんの「結構めんどくさい」ショックで飛んでしまった。(2/28追記、ショックといってもお優しい目つき雰囲気のキンスキーさんからそんないじりが、という面白のショックだったので、全然これからもいじってほしい…)

 

 

もう1つ。『himico』の衣装が、期せずして情勢に相応しい意味合いを含むものとなっていることを、とれたてさんがいたく感激しながら指摘していたこと。今、この演目をアゲハさんがどのような祈りでもって踊るのかということに、その場の誰よりも深く想いを馳せていたのではないかと思う。

ストリップを観に行く約束が2頭から延びのびになってしまって、じつは当日も諸事情で会える時間が遅くなり、結局とれたてさんの初めて観る演目がたまたま『himico』になったということが、なにか本当に僥倖のように思われた。

この日、劇場という場やある踊り子さんを媒介として他者と生についてさまざまな述懐を交わし合う時間があり、それは無論、そうでしか在り得なかった時間でもある。そのことを、この先ずっと忘れることはないだろう。

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