2/28 池袋ミカド劇場

 

品川の仕事が2月末で終わった。

今週から日本橋に戻ってますが、道劇に山手線一本で行けてたの良かったな…とか思う。

平日の休みがなくなかなか行けていなかった脱毛やら歯医者やらを済ませてから、楽日のミカドへ。

 

楽日ともなると、オープンやポラを何度か経て、東京のアゲハさんのお客さんの顔が、不分明ながらも少しずつ見えてくる。と同時に、さゆみさん軍団の結集力というのはこの界隈でも特異なものなんだな…ということも、おのずと了解される。

ツイッターに居ることで、いたずらに強まっていたミサンドリーの内面化が、ここではナチュラルに和らいでいく。

もう何度も言っていることだが、それは劇場でおじさんたちの男性性の脱ぎ去り、ということをもうずっと目撃し続けているからだ。この場の全てが無判断で肯定されるべきではないことはもちろん承知のうえでだが、劇場は、自らの持つジェンダー規範的態度と向き合い脱ぎ去り、また自らのフェミニズムを裁ち直し纏い直す、というあり方が模索されうる、ほとんど奇跡的な場所といっていい。宇佐美さんも、さゆみさんも、アゲハさんも、そうしたあり方に自覚的に一本線を通すことで、自分にとってはある種の必然性があって出逢っている、という実感が湧く。これは劇場で挨拶を交わすようになった友人たちについてもそうだし、敷衍すればお互い知らない、その日すれ違っただけで二度と会うことのないお客さんについてだって言えることでもある。

 

 

前置きが長くなってしまった。

今週は2回目固定だった『あげゲーム』。この日を最後にいったん仕舞われるというタイミングで、SAGでのご本人主演女優・男優賞のニュースが飛び込んでくるおまけ付き。

セビョク/ジヨンのシスターフッドという、本編では半ばにして潰えてしまった希望は、あのドラマの中から掬い上げて、劇場においてその可能性を甦らせる主題としてはなはだ正当であるように思う(それを見守る観客の大部分がおそらくはマジョリティのシスヘテロ男性であり、M3の不吉な韓国語のアナウンスは、韓国語話者がいない空間であればこそ単に不吉「めいた」ものに留まっている、ということも含めて)。

そうした批評性を多分に含む一方で、切実なレゲトンのM1に続くすっとぼけたM2は空気を一転させ、OPでの参加賞というお楽しみまで射程を持って、お客さんとのインテラクションが交わされる。アゲハさんが3人の犠牲者(?)のはかどり具合を気にすれば、自然と他の観客も銃声の響く中、なんだかそわそわしつつ一緒に参加し、ゆるく見守り合っているかのような空気が生じる。そして数ヶ月にわたって出されている演目であるにも関わらず、「これ、失敗したら死ぬんで」という演者の説明にちゃんと笑いが起きるのも本当に良かった。

また、BPMの早いラテンポップのM5は、M1と同じフィメールラッパーの選曲。ここではトラックの類似性が生かされていて、M1のシリアスさを引き継いではいるものの、間を置かず二段切られる決然としたポーズベットの美しさに、光明を見る思いになる。

 

3回目、こちらも話によると暫くの間やらなそうな?『himico』。

とにかくM2が凄まじい。和要素の入った3拍子のピアノハウス、尺が5分ちょっと。

自分から最も離れたところにある音楽とまでは言わないし、聴けば普通に好きなのだが、にしても積極的に聴く類のジャンルではない。にもかかわらず、1頭さゆみさんの一人楽日に観たときなんか、ほとんど一生過ぎたか?と思うくらいの刻の分厚さを感じた。こういう「一生か?」と思うような時間は、むろんリニアな時間観念の経過感覚においてそうであるというのではなしに、ある契機においてその常態を脱し、毎瞬毎瞬生きていることの忽然を確かな手触りとして味わうなかで立ち現れる。

前回の記事でエアリアルの捉えどころを掴みかねていると書いたが、ひとがその身体でもって空に舞う姿に、あまりに簡単に削ぎ落とした解釈ではあるけれど、刻一刻に現れる死を内包する豊かな有限性のふくらみと鼓動を、当然儚さと重ねながら観ている、というのはあるのだろう。

 

この演目の衣装については、以前ツイートしていたことがある。

耳飾り、というかヘッドドレスの付属品?みたいなタッセル状のアクセ、首飾り、一番下に纏った衣装と腕飾りが、それぞれ葉緑→翡翠色→ターコイズグリーン、と徐々に薄くなっていくグラデーションが美しい(ところでターコイズ色とは日本でいえば浅葱色である、というのに気づいたのはつい最近のこと…)。上着を羽織っている時は袴のように見えていた下衣は、赤・黄・金色のビビッドな縦方向の流れをなしている。これら二つの系は、ドロップが終わるとともに舞台奥から盆の真ん中まで引いてきたティシューをぶわっとはためかせ、アゲハさんが右に左に一度ずつ翻る…という部分で、文字通り目線を奪い、こちらを巻き込んでくる。そして自身もまた巻き込まれながら、両の手にしっかりと握られ交わることのない2本のティシューの<あいだ>、流動する空間の開放端のさきで、正面を見据えて舞っているアゲハさん。この一連のパート自体は時間で言えばほんの5秒にも満たないと思うが、後から思い返せばその刹那、自分はその<あいだ>に融け込みながら、ほとんど永遠の相に連れて行かれていたとしか思えない。

(3/4朝追記:ティシューを吊り下げる位置。ミカドだと中央で、道劇だと右側という違いがあり、道劇だと上手のお客さんの目の前をほとんど横切ってその上を揺曳するような視覚効果がある。かえって下手の方が奥行きは感じられるのかしら?今の所ミカドでは上手、道劇では上手中央寄りに座ることが多くて、今回はこうした位置取りによる差異を十分に意識して観ることができなかった。)

 

がっつり『himico』で感情をもっていかれてしまうため(特にこの日は楽日というのもあって)、PUIPUIな演目は憔悴しながら、あ~かわいいな…と思いながら観ているだけだったのだが、いずれ吊り道具が完全版になった時を楽しみにしていたい。

 

 

あまりに長くなってしまったのでこのへんで終わるけども、もう一つだけ。

初見だったJUNさんのKぽ、というかCLCの演目(CLCの演目としか言いようがない)。

M2とM3の歌詞がいずれも「돼」(かな表記にすると「どぇ」あるいは「で」、ただし日本語のそれほどには濁音は濁らない)で終わるのだが、そのパートだけリップシンクを入れて、同時に捧げるように腕を持ち上げる振付がある。

ストリップにおいて、とくに英語以外の他言語の楽曲がセットリストに入る際、そこまで歌詞の意味性に重きが置かれず選ばれることが多いのではないかと思う。

JUNさんのこの演目にしても音楽的な質感を手がかりに構成されているのではと想像するが、他方で、こうして「手」ぶりに合わせて「돼」をリップシンクすれば、「て」と言っているように聞こえる。日本語話者にとっても意味を成す振り付けになるし、M2のエレクトロポップでの立ち踊りとM3の大(おお)バラードでのベットとでは、その重み付けも変わってくる。こんな方法あるんだ…ということに感嘆した、というお話。

 

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