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土曜日、友人宅からの帰り道で完全に気分が落ち込み、日曜は全く動けなくなってしまう。

抑鬱が嵩じるのはもちろん単一の要因からではなく、この日もおそらく他人目にはなんということのないであろうコミュニケーションの綻びを見つける、というごく小さな契機があったに過ぎない。今となってはそれが何だったのかも正確には思い出せないのだが…普段は全般的な注意の散漫さのなかに惚けて生きているのに、人と人のあいだのこととなったとたん、めざとく瑕疵を見つけて勝手に不安になることに異常に長けてしまう、困った性質。スに関して東大阪に行けなかったのも地味に落ち込んでいるが、4月に東寺があるから3月を諦めて予定を入れたというのもあるし、こういうことを考え出すと本当にきりがない。

 

そんなこんなで布団から出れずにいたら夜にとある配信があり、それを聴いていると少しだけ元気が戻る。寝っ転がりながら本は読めるようになったので、何冊か読み薦めている本のうち、小松原織香『当事者は嘘をつく』(筑摩書房、2022年)を読了する。

 

性暴力被害の当事者として、そして性暴力被害に遭った人の支援に係る研究にあたる研究者として、徹底的に後者の立場からのパターナルな視点に疑義を抱きながら、アカデミアでのキャリアを重ねていくと同時に当事者としての私を突き詰めていく自伝的随筆。当事者として、何より誰かに「わかってもらいたい」という心底からの想いが渦巻いていることを認めつつ、著者は支援者による善かれと思っての手助けは、「私(たち)の言葉を「回復」の言説に回収し、もともと秘められていた生命力を奪っていく」(同書、p.98)という。たとえばトラウマ治療の古典的名著『心的外傷と回復』の著者である精神科医、ジュディス・ハーマンによる<赦し>の言説や、べてるの家で始められた当事者研究のような支援方法は、容認し難いものとして切り捨てられる。

その一方で著者に啓示をもたらすのは、学部生時代に触れたジャック・デリダによるラジオ講演をまとめた著書のほんの一節であったり、さらには修復的司法(修復的正義)のさらなる研究のために訪れた水俣で、市民として/当事者として、水俣病の災禍を巡り何十年と闘い続けてきた、杉本栄子や緒方正人といった人びとの語りであったりする。性暴力被害の当事者としての著者は、支援者たる精神科医や研究者による言動に度々傷つき、前述したように彼らのあり方に腑に落ちないもの、というよりははっきりと憤りを感じていた。しかし、とある座談会で、当事者が研究者に対して「あなたには(当事者でないから当事者の気持ちが)わからない」と言い捨てたことがあったという話題について緒方が咎め、「そんな傲慢ではお互いに分かり合うことはできない」と諭したことに、著者は驚く。

 

 性暴力被害者としての当事者性を持つ著者自身も、水俣においては当事者の語りを聴く側の人間である。ある側面では当事者だが、また別の側面では非当事者としてあるということは、その事柄を問わず、あらゆる人に敷衍して言えることでもある。著者が研究生活や水俣での経験を通して自身の当事者性についての考え方を何度も改めながら語り直すのを聴く時、読者もまた自身が当事者として深くコミットしている事柄や、ある種の支援者として関心を持ちながら関わっている事柄、あるいは現在は関心の外にあり、まったくの傍観者としてある事柄に関してさえ、そのあり方を見つめ直す機会が与えられている。

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