7/3、5、8、10 道劇

入り口の右側にあった、翌週出演者のポスターが掲示されていたボックス内。いつの間にか(おそらく月替わりから?)出演者の映像が流れる掲示板になっている。場内に張り出された(文法的には間違いだらけの)場内案内ポスターと同様、四か国語でのテロップが入る。夜にはずいぶんと一見さんグループの姿を見ることが増えていて、親切に接しつつ「推し」の踊り子さんを上手に推薦しているお客さんもいれば、「正常な」劇場の秩序を維持しようとしてか、前のめりなコミュニケーションをとっている人を目にすることもある。ともかく、場内は1頭や5頭のようなごった返しということもなく、アゲハさんが乗る週の渋谷で比較的ゆっくりしたタイムテーブルになるのは久しぶり。桃さんやAさんといった遠方組も揃っていて、そしてみんなやけにかわいげを発揮していた(いつになく飲んでるというAさんがふにゃふにゃしている様子が、最もみんなの笑顔を誘っていた)。

小倉の楽日3回目に観た『人魚』、が自分にとっては上半期のアゲハさんベストステージだった。そういう受け止めになったのは、鏡があり、幕があり、あの照明で、という小倉の環境に負うところが大きかったような気がする。
渋谷では幕開きでの登場になるM3。深い青から白にかけてグラデーションしていくような色調のハンモックにくるまって回転している。人魚が泳いでいるさまや人魚のように逆さにシルクを下半身にまきつけるというのはエアリアルハンモックによる表現ではごくありふれたものの一つなのかもしれないが、これはアゲハさんだからこそ、と思えるところも多分にある。例えばハンモックにすっぽりとくるまった回転において目を奪うのは、その生地につつまれてぴったりと浮き出ている胸や臀部のふくらみのエロティックさではなく、むしろ骨格の角張りや筋肉の現れだろう。
高木彬は村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』で、登場人物が妻の「陶器のようにつるりとした背中」を執拗に思い出すことにふれて、その思考がもつ規範性についてクラウディア・ベンティーンの著書『皮膚』での議論を参照する(平芳幸浩編『現代の皮膚感覚をさぐる』、p.92)。医学研究の歴史のなかで、男性の身体が標準的なものとしてみなされる一方、女性の身体は解剖の図像や模型として扱われることはほとんどなかった。たとえば人体解剖学の祖といわれるヴェサリウスの解剖学書において、力強い男性の身体は透明な皮膚に覆われているのに対し、女性の肉体を表現するのには「被い包み、隠す、すべらかな皮膚が必要だった」(ベンティーン)し、その非対称性は現代まで生き続けている。しばしば照明の下の踊り子さんの「なめらか」な肌が賞賛されることがあるけども、高木/ベンディーンの提示する身体イメージをふまえれば、それは男性中心的な身体の規範化・符号化に沿った見方なのかもしれない。高木の論考では前述の部分に続いて、解剖学の発展に伴い登場した絵画主題の「皮剥ぎ」においても男性身体が対象となっていたことに触れているけれども、その骨格や筋肉を生地ごしに認識した後、ハンモックから(それこそ、皮膚を脱ぐようにして)徐々に全貌を表すアゲハさんの筋肉質の肉体を視れば、上述したような男女二元論的な身体イメージの非対称性をまったく乗り越えてそこにあるように思われる。ひとことで言えば、こんな異様にかっこいい身体が出てきたら泣いちゃいますね、となる(楽日3回目、演目が終わるなりきりんさんに人を紹介されたものの鼻をかむのに忙しくて気もそぞろだった人)。
また、演目のラスト、恋?が成就せず海に還るという一般的な人魚姫のストーリーに近いようにもとれる終わり方になっているが、人魚が人魚の足に戻るさまを人間が演じれば、それは下肢が不随意になっていくことで、それって人が老いることでもあるなと。M4の収録アルバムに『人魚』という曲が入っているにもかかわらず使うのはこっち、という面白さもありつつ、この選曲がむしろタイトルに沿った演目のイメージを深めることと、他方で表現の多義性を担保することとを両立している。

今週、この『人魚』と『怪物』との二本立てで相当満足だった。細かくやりとりしながら撮った手錠プレイの写真、他人に見せるもんでもないけど、今年最も良いアゲハさんの表情を撮れた一枚なのではないか。

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