8/27 にっき 28古川智彬「「生きる」ことは「イキる」こと」を読む 29 新宿ニューアート

8/27

新宿三丁目の用事があり、久しぶりのコトカフェを訪れた後、予定の時刻よりも早く貸し会議室のあるマンションに着く。結城さんと合流して入室し、それから3人の知人がばらばらと到着。ちゃんとした形での話、といっても実にくだけた雰囲気でそれは進んだ。収録が終わるとシームレスにしょうもないおしゃべりに移行し、あっという間に二時間半が過ぎる。
別れる前、このメンツが集まるなら、と「ヨチンのラストアルバムのジャケ写で集合写真を撮る」、をお願いした。誰かが、それちひろさんのバケットリストだったよね、と言う。バケットリストとまでのたまった記憶はないが、ツイートを掘り返してみると事実だった。みんな、意外に他人の言ったことを憶えている。そして、口に出して(文字に書いて)願えばわりと叶う。
マンションを出ると、左手に電灯の少ない、車一台通れる程度の路地が伸びていた。ジャケ写の暗い佇まいにもそれなりに近い。半ば道を塞いで撮影のしかたを相談していたら、通り抜けようとした海外の方に「きれいな写真撮ってたのに〜すいません」と謝られる。結城さんに2テイク、何枚か撮ってもらうと、中華料理店の赤い店構えと提灯がいい按配に入り込んでいた。

8/28 古川智彬「生きる」ことは「イキる」こと」を読む

読もう読もうと思いつつ、やはりアイドルという現象自体への関心が薄れてしまっている状況でなかなか取り組めずにいた『アレ』掲載の古川智彬論考、「「生きる」ことは「イキる」こと」をようやく読む。
前半、従来優勢でいまだに受け入れられてもいる「アイドル=未熟」論を引き離しつつ、アイドルオタクその人にとってかけがえのない対象であるアイドルは子供である、という、「アイドル=子供」論が示される。そして、その関係性が、まったく逆の形をとることもある(ex.アイドルに叱られるオタク)。人は誰もが子供でありえるし、親ともなりうる。となると、アイドルオタクがしばしばコントロール不可能な浪費や享楽に浸ってしまうことを異常とみなす社会的通念のほうこそ、むしろ既存の家族制度にのみ固着した、異常な偏りを示しているのではないか、と切り返す部分は痛快。
他方でアイドルオタクは、他者に「賭け」、(一方的に)かけがえのなさを感じる、といった点で、その関わりにおいて相手に対して無責任である。「相手のため」という口実のもと、そうした自己中心的・利己的な働きかけは、反省なしに「乱用 abuse」される。しかし、こうした「乱用」性は、実際の親子関係においても常に繰り返されている光景でもある。
宮野真生子の論考群を中心とした九鬼周造「いき」論が援用される終盤も面白い。他者関係において「いき」ではないアイドルオタクは「イキり」をやめられないまま、いま、この子供(かつ親ともなりうる)=アイドルに向き合っている自らの特異性を掴みきれず、空回ってしまう。アイドルオタクは、自らの根本的な無責任性とそのままならなさに溺れつつもそれを受け入れ、かけがえのない他者=アイドルとの特異なる関わりにおいて自らの変容に向き合っていくべきではないか……いかにも実践的な回答が示された。

が、古川は、こうしたことはむしろ誰もが現に経験していることだろう、と結ぶ。ここでいわれている結論とは、昨今のアイドル論で盛んに言われているように、倫理的な心がけをもってアイドルに関わる諸現象に臨むべきである、という無限の自己反省を繰りかえすしかないような課題なのではない。おのおのが、自分が立つ「現場」から問い直し、そこから考えはじめようという、ごくまっとうな提案がなされている。そして、「現場」から問い直し、考えるということは、自己と他者とのあいだの経験を記述することと切り離すことはできない。他者の存在を真剣に受け止め、身体を通じ、情動的に触発され、自分にとってフィットする言葉でそれらが記述されるとき、なにかが変容する。

8/29 新宿ニューアート

今週二回目のニューアートへ。前々からインバウンド効果で盛況とは聞いていたものの、開演から立ち見多数。そういや水曜日に来たときは、振り返ったら「意外な方」が座ってたりもして、互いに目を見合わせた。そして今日は武藤さんにうさぎさんも。スト客が大挙して詰めかけている。
安田さん、初見の『UFO』が凄まじい。衣装や複数の小道具、今週実装されたレーザーに至るまで、次から次へとモノの情報が詰め込まれてくる。ひもで係留したドローンの無軌道さに制御されつつも重心を移しつつ踊るM2。客構いが有名映画のワンシーンと繋がって笑いを誘うかと思えば、ポーズでその身振りが取り入れられると一転感動的になってしまう。墜落したUFOのそばで動かなくなった同胞に涙したのもつかの間、立ち上がりでは引きちぎって「宇宙人食」に……。二回目の客席にありがちな、微妙に「ついていけてない」感が、何もかも荒唐無稽なステージをむしろ引き立てていた。水曜日に見た『シャナナ』の肩から入るシャチは、小倉で安田さんを初めて観てその造形に驚いたものだったが、重要なのは「かたち」ではなく入りの動勢だろう、という話を結城さんとしていた。この日のポーズは勢いのままに両足水平開脚様に落ち着くかに見えつつも、それが目指されているわけではなく再び動的なシークエンスに戻っていく(ポーズに対する拍手が、その成形の帰着と保持の間に向けられることが一般的であるにもかかわらず、安田さんにおいてはポーズの成形の帰着それ自体や保持はどうでもよいものに見える)。『finally』で本舞台へと去る背姿は、まるでアゲハさんのそれを見ているような充足感。予定調和とはまったく無縁で、安田さんを観ると毎回何がしかの感動があるな…と再認識。
せりなさん。今週の『宵闇は明く』はストロボ、側面と後方のレーザーに背面鏡が加わってブチ上がらないわけがなく、もう無敵の演目になっている。ストリップにおける羽扇を扱う演目の、動物的な動態のミメーシスとでもいえばいいのか。羽扇によって拡張される裸の身体の誘惑性は、人間社会の視点でいう性的誘惑とは明らかに質の異なった快楽を催させるものだと思う。非性器的な性的快楽?3回目、『OL』は栗橋で机がぶっ壊れたとき以来(壊れた机は皆勤賞として贈呈?されたんだとか)。譲られた正面かぶりに座っていたら、本舞台から一直線に歩いてきたOLにすごい筆跡のメモを渡される。劇場に通っていると、いろんなものが増えていく。

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