11/12〜15 DX東寺(金銀銅杯)

11/12
前夜、全く寝れずに始まる遠征。日付が変わってもシーシャLINEが動いてたんで、乱入して言いたいことだけ言って絡んで不眠のうさを晴らしていたら、レッサーパン子とピヨ子の、世界で一番いいツーショがTwitterに上がり、よかったね、となぜか祝福される。新幹線では寝れるだけ寝て、下手の盆回りに着席した。左側からいつも半袖の小宮山客Tさん、右後ろからACさんに声をかけられる。十結栗橋ゾーン?
アゲハさんの二回目、じつはまだタイトルの決まってなかった周年作(後日、『かぐや』と正式に決まった)。周年週の後半である程度固まった演目、という印象があったのだけど、東寺でめちゃくちゃ感触が変わった。劇場のサイズ感や設備に合わせた諸々の道具の調整やルーティーンの変更が十全にフィットしているように受け取れて、かつ自分がそれを良さとして観れていること自体の嬉しさがある。
たとえばM4、月に両手をかざすシークエンス。渋谷では地下空間の狭さにそぐわず巨大に見えるスーパームーンが、盆の回転とともにアゲハさんの身体の向こうに現れては消え(もちろん見る位置によっても大きく印象を違えるが)、という生々しい見え方をしていた。東寺では、奥行きも高さも十二分な空間に上がった月と、回転する小盆上でそこに向かって両手を捧げる身体との距離感は、ある程度相応なものにとれる。リアリティ、といってしまうと充分にその効果を言い表せないような気がするが、なにかを希求するようにも、また諦念のようにもとれる両腕の捧げ出しは、小盆が円環を回り続ける無常感も連想的にはたらいて、切実さを伴うことに関してのリアリティとして経験される。同曲の終わりにシルクを上がっていくかぐやの「帰還」も大きなパートで、ほとんど原作に関する物語的解釈の痕跡が見出せなかったこの演目において、ひとつの塊になったというか、一本、筋が通って重厚さをもたらすシークエンスになっていた。この日初めて見たせりなさんの新作『マッチ売りの少女』とともに、物語性のプラス面について考えを改める機会になる。この回は立ち踊りも調子良さそうで、音もデカかったし、まあ何もかも良くて涙が出た。
終演後、キンちゃんと桃さんとでご飯。シーシャ屋へ行こうとしたらもうL.Oの時間を過ぎていて、脱力したシーシャ中毒者の解散しますか…の声で終了。眠かったけどなんか名残惜しくて、別に今しなくても、という話で引き留め、信号一回ぶん待たせてしまった。今日楽しかったんだな〜。

11/13
帰り際のポラで観光をしてくると告げてきたのに、ホテルを出る時間には雨が降り始めて、文字通り怪しい雲行き。烏丸御池に移動して地上へ出たらざあざあ降り。そして、異常な寒さ。ショルダーバッグを雨除けに、通りをひとつ隔てた場所のSentidoというカフェになんとか駆け込む。お店はとても良い感じだったが、このへんで傘を買うのを躊躇ったのが完全に響いた。一時間ごとに、東西に移動して雨宿りしているうちに晴れてきたが、こうなるとアンビエント京都も庭園散策もどうでも良くなって、あとは必要な用事を済ますしかない。
去年に続いて、市役所前のリンデンバウムでオンニたちへの差し入れを買う。烏丸三条の大垣書店では明日来るいとーに頼まれたおつかいを(結果的には果たせなかったものの)済ませて、部屋に戻り、あとは座っていた記憶のみ。あ、平岡さんと我妻さんの短歌本を読み進めて、レドベルとスキズのそんなピンとこない新譜を流し聞きした。重機の曲がしばしば歌われ、ショベルカーの免許を取るアイドルがいるKPOP。

11/14
起きて、散歩がてら荷物を置きに行く。まさかの先頭。お昼はイオン脇道をいったところの名店、殿田で食べた。韓国語でやりとりしている旅行客に、韓国の人なら早く言ってよ〜、とホールのアジュンマ、いやオンニが韓国語で気さくに話しかける。ネー、マシッケドゥセヨ(美味しく召し上がれ)、と食事がサーブされるときの、あの親しみ深い響き。相席でせせこましくしていたけど、気分のいい食事になった。開演直前になっていとーがやってきて、隣に座る。デトックスで胸の肉が落ちすぎたというアゲちゃんに、おっぱいの足しにして、と昨日買ってきたチョコを差し入れた(そんなことある?)。
ささきさん奇数回、ヌーボーこと『ムーブオン』(余談だがこのヌーボーといい、箱館さん周年作の立ち上がりの曲といい、なんだか今週の東寺はかにちゃんを想起するあれやこれやがある)。栗橋の『デート』の立ち踊りのたっぷりとした遅取りがとろけるほどに心地よかったが、今週の踊りは空間に残響するようにシャープな溌剌さが印象的。演目後半、本舞台下手から透過性のある生地の布?を引いてきて、それをささきさんがかぶるとき、照明の具合で皮膚とほとんど変わらない色合いに見える。ベッドから立ち上がりの間、布が扱われるのを観ているとマルチモーダルな感覚が生じてくるが、これがただ単に快とは言いきれない引っかかりを催させるのは、皮膚感覚〜触覚的な惹起によるところが大きいのだろうか。そんなこちらの引っ掛かりをよそに、音のない舞台を、都度そのときの身体的なリズムにまかせて、何十秒もかけて気持ちよさそうに去っていくささきさんの背中、異常に格好いい。
せりなさん一回目『ポリス』、大箱でひときわ輝く演目でめちゃ上がる。栗橋よりぜんぜん楽しめるようになって、これはきっと別の場所で見てもそうだろうという予感がある。良さの「閾値」を超えた感じ。二回目・四回目『マッチ売りの少女』。もちろん同名の童話がモチーフ。M1、偉大な歌手によるクリスマススタンダードの流れる雪の中、客席に向かって売り子をやるが、もちろんマッチは売れない。最後にはマッチも掲げずに手を上げての声かけ。街娼のイメージかも。これもうまくいかず、本舞台で横になったままマッチを取り出して実際に点火。吹き消して暗転。大盆がわにも火薬が匂ってくる。M2以降はどうやら少女の見ている幻影のようだ、と概ね了解できる。昔の童話だから、映像や舞台やインスピレーションを受けた作品を含め、当然さまざまな先人のバージョンがある。そうした中のひとつの結末を参考にした、とのこと。
演者が、説話や童話や映画、物語をモチーフとしてそのストーリーに依拠しながら演目を作ること、それを観客が物語性に沿いながら受け取っていくこと、そのいずれもが、ひとつの定型としてストリップに存在しているだろう。旅行中に平岡さん・我妻さんの本を読んでそういう話をしたくなってるだけなので、なんか核心的なことを言えるわけではないのだけど、ともかく演目の構成にせよ、ポーズの「型」にせよ、劇場でのふるまいかたにせよ、なんであれストリップにはたくさんの定型がある。そうした定型に重要性を見出し、ストリップの面白さを感じている人もたくさんいるだろう。最初、せりなさんを見はじめた頃は「定型の側」により重心をおいている人なのかなと思っていた(他方で、安田さんは一貫して「破調」の人と思える)。去年の八中横浜で『ゴルフ』の無秩序で脱目的的なステージを観て以来、ずいぶんと見方が変わった。『ポリス』にしても『マッチ売りの少女』にしても、わかりやすく定型に沿った構成がとられていようが、そこを大きくはみ出していく本人のパフォーマンスが、定型に沿った受け取りに終始しようとしている観客側の予測を、大きく塗り替えてしまう。M2は打って変わってレゲトンのビート、ミュージカルみたいな振り付けで飛び跳ねたりとかしながらかわいく踊っている。プレゼントボックスを開けると天使の衣装。M3-M4は幻影の中で昇天するプロセスになる。大盆でのシークエンス、LEDの照明が当たると、このいとも明るい幻影はM1で擦られたあの火に映っているのだ、と再帰的に(実際に嗅いだ火薬の香りと共に)思い起こされる。エアリアルシルクでは普段みるような大技のスピンとかではなくて、キリスト教美術の天使のイメージとして想起できそうなポーズを、水平・垂直どちらの空間も大きく使って表現する。逆さ吊りから半回転し、正立した形で完成する最後のポーズ、糸目の笑顔。生死とは、人生のはじまりとおわりにわかれた別々の二元ではないし、ひとつでありながら両義的で、こうだと思い込んでいたものが、ふとしたことでひっくり返って捉えられるようになる、そんなことが人生ではたくさん起こる。放心して、いとーとしばらく座ったまま感想を話し合った。
四回目、箱館さん『炎のファイター』。最後の「ダーー!!」を唱和する自分、いとーによれば今日いちデカい声が出てたらしい。元気の出る金銀銅杯。まじで!

11/15

最終日、今日も上手の大盆前。スモークマシンの液が頭皮に落ちてきて、思わず上を見上げようとすると、右後ろにまたもやACさんが。プチ指定席? 審査員席にはTさん、平井さん。
箱館さん三回目、この週初めて出してみるという『一休さん』(アナウンスも箱館エリィではなく一休さん)。途中までギャグ演目かと思っていたが、立ち上がりで完全に印象を違える。比較的コンパクトに力動が凝集するイメージだった箱館さんのポーズが、施無畏印を伴って切られると突如としてダイナミックに空間を開く。また、ポーズを切っている後ろ姿に、頭部と裸の身体とが同じ色であるという、ごくごく当たり前のことが急に了解されて、またそれがのっぺら坊のように見えて、戸惑う。逆説的に、自分は女性の踊り子は誰しも髪があることを当たり前に思っていて、そしてふだん髪の毛の流れや質感にすら表情を読み取ろうとしている(たとえば友坂さん)、ということが認識されてくる。最後は本舞台で目を瞑って、ゆっくり坐禅を組む。目潰しで坊主頭に後光が差す。もはや伽藍のなかの内陣で、みんなで巨大な仏の前に座っているような心持ちになって終わる。東寺(本物)ってぜんぜん禅宗のお寺じゃないし、そもそもここ(DX東寺)お寺じゃないし、でもそんな細かいこととかほんとにどうでもよくなる。なにごとにも厳格にすぎる必要はなくていい加減でいい、と悟れる。ポラで出てくるやいなや「いや〜、数百年ぶりに一休さんが京都に帰ってきましたよ〜」、とMCも完璧。
アゲハさん『あきんこ』。いとーも書いてたが、東寺で追加された二つの対比的なシークエンスとして、かぐやの「帰還」の上昇に対して、あきんこのM4、逆さになったままの緩やかな下降がある。そしてこれは『かぐや』を数多く見てきたからだろうが、小盆で頭上からの照明が当たっている時の筋肉の肌理は、さながらクレーターのように目に入ってくる。近代の西洋美学では、人間のスケールを超えた自然に対する畏怖を「崇高」の概念で言い表した。20世紀にはその対象は自然から芸術へと移り変わっていくが、近代美学的な意味での崇高さ、つまり「自然」の圧倒的スケールに打たれるような情動をストリップで感じるのは、アゲハさんの身体をみるときに特有のものだ。
一休さんのあとの三回目。『あきんこ』のつもりで待機していたら、アゲハさんが脚立をもって登場。今日は下手側の脚立専門家の人がいないので、慌ててACさんと脚立を押さえに出ていく。四年ぶりだという『It』。小盆と大盆の間の細い場所(魔法陣の照明があるとこ)での低空リングが印象的。これからもしばらく演じられるようだし、原作こわいけど観るか…(次週、まさごに風船+黄色レインコート+ピエロメイクで現れる人)

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