3/21 3/24 渋谷道頓堀劇場

 

職場が品川から本社に戻って(また5月から品川になる予定)、帰りがけ道劇に行く際は銀座線。慣れなくてヒカリエ口で降りてしまうと、百軒店までの道のりが、実際の距離以上に遠く体感される。で、Kぽのダンスレッスンもやめてしまってからだいぶ経(へ)た、まるっきり運動不足の身体で走るはめになる。結果、先週は21日の『あげこのサロメ』には間に合わず、24日の『PUIPUI』にはM2(M1が10秒で終わるので、ほぼM1ではある)の始まりにぎりぎり入場、という体力勝負?な観劇が続いたりしてた。

 

24日に初見の『あげこのサロメ』。

ねえさまのようにエアリアルを嗜まないというあげこさんとは、この3結で初めてお会いする。遡って『サロメ』を見逃した回のポラでは、初対面の挨拶をされて一瞬たじろぎ、そういえば…となる一幕があった。

サロメはストリップにおいて取り上げられやすい主題のはずで、実際そうであるらしい。『あげこの』、という所有格の修飾句がついていることは、アゲハさんがある一定の制作意図をもって、浅葱アゲ子というペルソナを通して演出する演目群のうちの一つであるということ以外にも、おそらくストリップで過去に数々制作されてきたであろうサロメの演目を踊り継ぐ踊り子の一人である、というストリップの歴史におけるプレゼンスの意味合いや、そもそも古今東西サロメを主題としてきた、あらゆる芸術家・演出家・文学者などに連なる解釈者の一人としての名乗りにもなりえている、といった複数の文脈で読めてしまう。

 

演目。明確な主題というか参照元があるので、本なり演劇なり映画なり、なんらかの形で物語にふれた経験があれば、予測の範囲内のことが起こっていく。あげこのサロメは衣裳を替えながらの余韻をたっぷりと含む立ち踊りのあと、筋書きどおりに望むものを与えられるのだが、それに立ち会う経験については、1度の観劇だけではかなり記述しづらいものがある。ストリップの演目において、マネキンやトルソーといった人間の身体をかたどった物(ディルドなんかもここに含めても良いのかもしれない)が、踊り子にとっての二人称的位置づけとして使用されることはままある。それが(死者のそれを想起させる)頭像であるという異様な状況では、第三者の視点で身体的に没入していける手がかりはあるのかしらと考える時間があったが、杞憂だった。

無表情で端正で煌いていて、むしろ聖遺物のようなそれに、「生首感」はない。あげこのサロメは、それを受け取ると待ちきれなかったように、かなり早い段階ではじめての口づけをするのだが、暫くして再び訪れる接吻においても、その甘美さは変わらず立ち上がってくる。二度目の接吻を観た瞬間に、これからこの演目を見るたび、きっとずっと、このいつもはじめてであるような口づけを観ることの甘美さを繰り返し味わうことになるのだろうと、根拠などなんにもなしに確信してしまったりする。

このサロメは、ワイルドが描いたように口唇快楽的な欲動にのみ従ってヨカナーンを求めるだけではなく、たとえば上からまるでヨカナーンそのひとの身体に覆いかぶさるようなかたちで、それを慈しむふるまいを見せる。愛の対象とともに切られるポーズにおいても維持されるこの篤実さは、サロメに屈折した情愛を抱くヘロデには相変わらず狂気の沙汰に見えるのかもしれないけども、愚かしくもこのように愛を示す姿を世界にひらくことのできる人間が、なぜあの物語では殺されてしまうのだろう。観客が、原作とは違って殺されなかった女を目撃する、という点では『あげゲーム』にも通底するものがあるし、ヨカナーンのセクシュアリティについても、観る側が恣意的に読み込むことのできる余地が残されてもいる。

 

『PUIPUI』。かわいい以外の感想ないんですか、とある筋から問い詰め?られることがあった(そんなことあるんだ)が、登場のジングルからアイリスアウト調に終りを迎える最後まで圧倒的にそうなのでしょうがない。24日は『あげこのサロメ』を観た後ということもあり、口づけて触れられる直前の脚先が手先とクロスして切られたポーズ(混線した記述になってしまうが)が、いつも以上にかたちとして強く見えた。吊り具がハート型のになってからは初めて観るが、アゲハさんの後ろでカーテンにハートの影が映るのをデジカメ越しに見やりながら、白い背景の劇場や鏡背景の劇場で観たらますます良いだろうな…などと夢想したり、わりとシリアスな歌詞の曲が流れる中のぬいぐるみとの戯れで、しょっちゅうぬいぐるみに顔を轢かれてる形になってるの面白いな…と思ってたらご本人が一番面白がっていそうなことに笑ってしまったり、あまり肩肘張らない感じの心証ばかり出てくるようだ。

そういえば肩肘張らない、で思い出したが、24日わりと場内が空いていたので両手を気持ち広めに椅子につく形で観劇してみた。腕を組んだり膝の上に置いていると舞台に対して身体が開かれないのでは、と思ってそうしてみたものの、気がつくと身体が前のめりになってるし肘も張ってめちゃくちゃ緊張してるので良くなかった。もうヨガの安楽座で観ようかな

 

ところでこの週はアゲハさんの時間に着いてばかりだったので、続けて二番めに虹歩さん(初見)を観る、という流れになりがちだったが、この並びが相当良かった。24周年作は初日3回続けて観て、回とともにどんどん身体に入ってくる快感があったが、週の半ばに再び観てみると演目自体のリブートがかなり進んでいて驚く。

M1→M2の着替えを見せる時間がコンパクトになり、こちとらM2のギャンギャンに分厚いシンセ音が身体に滲みまくった状態になったところで虹歩さん登場、大きな足運びで裾を引きずりながら練り歩く際、盆のぎりぎりまで歩幅を広げているという改変がなされていて(3/31追記、これ昨日見たらそうでもなくて、虹歩さんの按配によるのこもしれないし、上手2列目で見たか正面3列目で見たかの印象の違いというだけかもしれない)、めちゃくちゃに格好良かった。また、ラストでとある舞台道具の食べ物を口いっぱいに頬張るという行為があるが、初日はそれを含んだままでのとぼけたふうの口上があり、場内爆笑する場面が二度あった。が、この日はその食べ物を口に入れる(というよりは落とす)動作がより大雑把な動きでなされ、口に入る量もそれによって目減りする(=暗転時、口上を述べる前にに口から吐き出しやすくなる)。そしてその粗大な動作が、この演目自体のムードからしてもぴったりくる。ブラッシュアップされていく新作を見ることの面白さ、気持ち良さ!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です