今日は3月30日以来の劇場。
4中は関東でも行きたいところがいろいろとあったのに、気分と体調、それに予定も整わず前半はなんとなく見送ってしまった。渋谷は、先日スを経験したばかりの友人と楽日に行く予定。
で、今は東京駅で朝3時以来2回目の朝ごはんを食べながらこれを投稿しようとしている。新幹線に乗ったら即寝るから。
フォローしているごく一部の人について、ついついいいね欄を見に行ったりしてしまう。
それで勝手に具合が悪くなったりしていて本当にどうしようもないのだが、たとえばトランス差別に関しての、フェミニズムを実践する人々同士の論難は最も辛いイシューの1つだが、(4/16修正)今それに直接言及する元気はない。
一昨日、思いがけずアゲハさんの昔の文章を読む機会があった。昔のといっても一昨年だが。
過去に記録されたお客さんの観劇記やインタビューの類は色々と読んでいるが、そういえばご本人の言葉がちゃんと残されていることを、無意識にではあるがなにか避けるようにして触れていなかったかもしれない、ということに思い当たる。
ある人とのあいだに、自分がその人を知らないでいたある時期における出来事なり、その活動に関する記録なりに接して、自分が存在していながらそのときそれを経験せず、今後もそれは動かない事実としてあるということで、とてつもなく峻険な隔たりを感じるときがある。それこそ、Netflixで配信中のドラマ『二十五、二十一』で、主人公のヒド(キム・テリ)が、かけがえのない友人=「重要な他者」で学校の先輩でもあるイジン(ナム・ジュヒョク)が放送部員として過去に録音していたテープに聞き入る場面がある。そこにはイジンがかつて親しくしていたと思われる他者の声も入っている。勿論、そうした隘路における落ち込みがあるからこそ、これからこの人とともにある限られた時間を大切にしよう、という意志も湧いてくるのだが。雑な言い方をするが、自分が90年代に思春期を過ごした人間であることも手伝って、本当に心のいろんな部分に触れてくるドラマだと思う。
話が逸れた。
フェミニストであるということは、その人のふるまいの実践としてそうであるという在りようにおいてそうなのであって、その人を表す何らかの属性のひとつとしてフェミニストであるというのは、実は何を指し示しているのかよくわからない物言いともいえるし、また批判のレッテルとしてあまりに安易に使われもする。そうした意味で、アゲハさんが自己認識としてフェミニストであっても、自己紹介としてフェミニストという言葉を使うのは難しい、というのは真っ当だし、また最近ある人が、フェミニズムのためにトランス差別をする人に目をつむらなければいけないのであればフェミニストをやめる、といったことを言っていたけども、レトリックであるにしてもその言い草は違うのでは、と思う(石川さんにみんながやたら厳しいのも意味がわからない)。
ともあれアゲハさんの長い文章を初めてじっくり読んでみて、いい意味で何ひとつ驚くことはなかった。恐れていたような淋しさを感じることもなかった。
1月3日、ほぼ何の前情報もなく観た2つの演目における踊り子の身体の「かたり」と、同じ人物がかつて紡いでいたことばのあいだにはなんの齟齬もなくて、そこから何が言えるかというのではなく、それがただ実感としてあるということが、本当に心から嬉しかったというだけである。
そろそろ、新幹線に乗る時間が来た。
心なしか、ホームですれ違う眼鏡をかけた男性が全員キンスキーさんに見える