四日前の福尾匠さんの日記が、カフェにいるおじの生態観察記だった。目につくおじって、どこか過剰さを持て余した挙動や様態をしている。福尾さんの日記を見返してみても、小声で歌ってるとか、なんかやたら荷物が多いとか、そういう人々が描写されている。ところでストリップ劇場に来ることがなければ、こうしたおじの存在様態を、なんとなく不快さをたたえた、近づきたくない厄介な男性というイメージを伴うのではない、おじの生態それ自体として眺めるということが、自分にはできなかっただろうと思う。
オープンショーを見ていると、チップを渡すたった数秒の非言語的なやりとりの中に、踊り子さんと知らないおじとの個別的な関係性が、確かに、垣間見える。何人ものおじの、そうした具体的な他者との関係性の在りようを目にする(こうした場面で、前段にあるような目につくタイプのおじの姿ほど、特異にかわいげのあるものとして見えてくる)。ショーが終われば、そのいちいちの出来事をすっかり忘れてしまっている。しかし、己のミサンドリー的な感情の喚起に関して、微々たるものながら変容が起こっている、という認識の経験は積み重なっていく。