4/16~18 DX東寺、4/20 渋谷道頓堀劇場

 

1.

 

何を書き残しておくべきなのか全く整理がつかず、今回のもろもろの件についてなんらかの態度を表明するというふるまいにおいて、自分がふさわしくそれを行えるとはとても思えない、という感触が払拭されず、しかし何も書かないままにそれらを忘却することは無責任にすぎるし、他方で文フリの原稿の締め切りも迫ってきている。出来る範囲でいったん出力する、というところをゴールにして書いてみる。
さまざまな反応を見ていて、劇場において性暴力犯罪がまかり通っていて、当該の場所で、それが常習であるのにもかかわらず見過ごされてきたということ自体はもう最低最悪で、出禁という措置にすら至らない従業員の対応は非難されて然るべき…という認識は、ほぼ全ての(Twitter上の)お客さんが共有していると思う。そして、踊り子さんたちが実際被害に遭われた方に対するケア及び今後の対策に関しての問題提起、場内への注意喚起やポラ時等の目配りを含めて多面的に対応して下さっていることについても、お忙しかったりお心苦しかったりするだろう中で綿密で適切な措置を取って下さっていて、感謝しかない。そして今回の件に限らず、そうした努力がやはり踊り子さん主体で行われがちであったというエピソードがちらほら挙がっている。従業員による迷惑客の応対が放置されがちな劇場についてはそれが改善されるべきということは論を俟たないが、一方で(主に男性客が)客としてどうあることができるか、という点に関しては、かなりふわっとした話に終始していたようにも思う。
今回の滞在最終日の場内に関していえば、ソロ初遠征という女性のお客さんに困ったことがあったら、と声かけを行っている方がいらっしゃったり、雰囲気は和やかながらも目配りを絶やさないようにしようという意思に包まれているように感じた。また、私たちが座っていた下手花道側は前日に被害のあった場所かもしれない、という話を小耳に挟んだ。その日はたまたまそこに座っただけだし事実の裏も取れていないので現時点で確証がないものの、今後、意識的にそうした場所に座を占めることは、性暴力に対するカウンターの実践としての一手段にもなりえる。
他方で、折しも各界での性暴力告発がようやく耳目を集めつつある昨今の状況がある。今回は基本的には劇場における痴漢という行為そのものに問題が焦点化されていて、もちろんこうした違法行為に断固NOを示し、解決策を提起していくことは大前提である。ただそれに留まらず、女性が声を上げることを抑圧しこうした行為を許してしまっている構造そのものについて、劇場という場で(多くの部分で)マジョリティの属性を持つ人びとを巻き込み、それを考え続けるための機会がそこには開かれているはずである。ただ、「男女」関係なく楽しい場に、といった声を聞くとき、クィアとして自分がこの場にあることになんの意味があるのか、他者に自分の声が届く気が全くせず落ち込んでいる。今回、嫌な思いをしたらすぐ伝えるように言って下さった踊り子さんに心から感謝しつつ、また劇場とは男性性の脱ぎ去りがおのずから起こりうる経験に身を投げ入れることのできる稀有な場であることを信じつつ、自分が提起できることを(具合が悪くならない範囲で)考えていきたいと思っている。

 

2.

 

今回はキンスキーさんとたまたま旅程が一緒だった。最終日に食事を忘れてどうしよう、と言ってたら3日連続で買ってるというおすすめのよもぎパンを分けてくれたり、初日の最終回正面かぶりの席を譲ってくれたり、それぞれにそれぞれの事情で具合が悪くなったりしながら3日間を過ごした。急接近じゃん〜とか周りに言われたりアゲハさんにも泊まり一緒ですか?!と(とくに悪気はなく)聞かれたりしたが、バイブスがおのずと気楽なほうにチューニングされる関係性というのは得難いな…と一方的に思ってはいる。
それと、キンスキーさんを通して、新陳代謝ちゃんさんやうさぎいぬさんといった、お互いをなんとなく認識しあってはいた同人誌界隈の面々とちゃんと繋がれたり、会った瞬間からかっこいいな?!となった篤里さんとも知り合えたりという出会いもあり、きららさんにめちゃ絡まれてた新陳代謝ちゃんさんのお母さまも含めて6人で、3150ポーズで記念撮影をする、という謎イベントがあった。もろINFPで厭世的で、同質性を求められることが死ぬほど苦手だけど、こういう集団行動がめちゃくちゃ好きなんだな、と久しぶりに思い出せた。生きた生を心から楽しんでいる、劇場という場所での一場面が記録として残されるということにも、それがいずれ意味を失い消え去る無益なこととは思われず、肯定的な気持ちになれる。

 

3.

アゲハさんは、2個出し+渋谷でも楽日前に一度拝見したアゲコさんの新作。
『PUIPUI』、この東寺で、『himico』を超して最も多く観ている演目になった。ハートリングは天井の高さの関係で取り付け作業が演目からオミットされ、その分リングに寄り添って後方(小盆と大盆の中間なので横幅は狭い)での立ち踊りの時間が多くなる。ハートリングに腕を乗せてそこから顔を覗かせるとき、あるいはリングの上に座ってアゲハさんが客席を見下ろすとき、仰向けになってゆっくり回転するリングを見上げているとき、あるいはベットで開脚しながら、それと相似形に見立てるかのように両の人差し指・中指でハートを作り微笑むとき。愛を象徴する記号の提示が繰り返されていくことの作用。この演目自体を何度も観る経験の上乗せもそこには積み重なっており、ハートと共にあるアゲハさんの身体を観ていて、その記号のベタさを超えて胸を衝いてくる瞬間が、演目の特定の部分ではなしに不意にやってくる。2結の自分にとってはスタイリングのかわいさが新鮮でそればかりが視界を占めていたけども、演目を観続ける経験でかように人は変わる。

 

8年ぶりに出すという、ティシューをたっぷり使う『shiro』。現存する劇場の中で、東寺以外で出されていたこともあるのだろうか。天井の正確な高さはわからないが、アゲハさん3人分の高さをもってもまだ余裕を残していそう、とざっくりした計算をする。初見で目についた「繭」のシーンがある。ティシューで天井の高みに上っていく動作のなかには、次の動作へ移るためだったり安全確保のために必要であったりして行われる動作と、魅せることを主眼とした動作とが不可分に混じり合っていて、それらは素人には判別のしようがない。ただ、M3において明らかに合目的的とは思えない一連の動作部分があり、ティシューを上下肢にまきつけるアゲハさんを観て、記憶をペグ留めするように「繭」、と心のなかでつぶやく。その後、M6において羽を開いたように天井から吊り下がっている姿を目の当たりにするに至って、アゲハという芸名を想起するまでもなくM3の「繭」の場面の印象とが密接にリンクして体感される。初日にロビーでそんな話をキンスキーさんにすると、実はこの「繭」(キンスキーさんはみのむし、と称していた)は別の場所で見覚えがあるとのこと。その直感は当たっていたようで、劇場の中にいるだけではわからないオーラルヒストリーからの発見が、ここにもあった。
M6はティシューでの回転落下が二度あり、その後再びティシュー技からの大団円となる。パスカル・キニャールは生誕と死という二つの「出る」現象の類比において、kata-strophe(大惨事、破綻、悲劇的な終末)、という語がギリシャ語で回りながら落下する動きへ分解されるという語源であることについて触れている。キニャールは子宮から飛び出し地上へと落下する誕生が人間の経験の根源であり、また暗黒舞踏にも触れながら、それは地表から生まれ直しを試みる踊りである、ともいう。回転落下に入るその瞬間の表情や、背中から羽の生えたように身体に沿って垂れるティシューの揺れ動きや、最下地点から再度ティシューを足で巻きつけて天井へと上っていくアゲハさんを観ながら、思い起こしていたのはそういう記述だった。回りながら落下し、重力に身を任せている身体を視ることによる性的な高揚は明らかにあるはずで、ティシューのルーティーンを観ているとき快が身体に拡がっているのは、アゲハさんのパフォーマンスをエロティックに受容できていることの実感なのだとしたら喜ばしいな、と後づけ的に思ったりした。
ところで前述したように、最終日はこの演目を正面かぶりで観劇することができた。たしかに、ここでは奥行の深度がありのままに感じられるようで、これは端っこの席だからかもしれないが他の観客の存在も夾雑物となることはない(隣の知らない客の袖が触れるだけでも、観劇中には大きなノイズが生じる)。M1〜M2の主に舞台奥で繰り広げられる立ち踊りにしても、遠いな、という感覚すらなく身体に入ってくるし、エアリアルやベットに関しては勿論いうまでもない。2日目の夜に友人と会う約束だったので初日は最後までいようと思っていたのに、武藤さんではないが頭にお花が咲いてしまい、もうこの余韻のまま帰っちゃおうかな…という気分に抗えなかった。怖い席だ

 

アゲコさんの新作、『SR』が正式名称ということになるんだろうか。『shiro』とは打って変わって赤リップのメイク、目元もばっちりになっている。渋谷で観たときに新作はあんま好きじゃないやつかもと言われたけども、何度か観ていると食らう部分は当然出てくる。ほとんど有意な動きがないのに、この曲で保つんだ、というベットが格別で、また下降していくピアノのフレーズに合わせて徐々に切られるエルもくどくならずに入ってくる。このへんは老練というか(一応断るけども年嵩であるという意味合いは含まない、そもそも歳も自分とほとんど変わらないと思いますが…)、こういう知悉されたかのようなポーズベットの良さを担保するものの基準って何かしら記述しうるものなのかしら、と思ってしまう。ただ良い、としかいえないことが残念だ。
金魚妻は3話でリタイアしました。

 

きららさんのことを書けていない…今回はなんといっても『教習所』で、毎回アホみたいに楽しくなってしまった。遠征前に事前課題のパラパラを少し練習したものの、自分の認知リソースでは振付がわからなくなりフリーズするだろうと思い途中で諦めた。ストに親しむようになって、こんなアホになっていいんだな、と思えるようになったことは自分にとって最も重要な変化のひとつだが、その認識を見るたび更新してくれるのがきららさんである。8日目にPUIPUIに改造された車を観ながら、ローライダーでのホッピング、思えば全然直球でセックスのメタファーなんだな〜ということに気づかされもした。
もうどれが新作なのかわからなくなっているが、『PINK』は選曲も最高。M1、ドジャ子の名ディスコファンクをスムースに踊っていて、両の人差し指でハートの形をなぞるように描きながら花道を回る姿が忘れられない。

 

それと、20日に観に行った道劇についても取り急ぎ。
黒井さんの『反戦歌』3部作。こうした歴史的主題をとりわけいま取り上げることの意義を考え出すと、たしかに腑に落ちない部分というのは出てくるのかもしれない。扇情された共感がべつの無理解、べつの暴力を助長することもままある。たとえば、万が一いまアジアに戦争をほのめかすような動きが波及したならば、この国では差別的な言動や行動がよりいっそう幅を利かし、人と人との個別的な関わりを蝕み飲み込んでいくだろうことが目に見えている。観客の誰しもが、他者の人権を想像するということに関して一定以上の心がけや関心を持っているわけでもない。戦争という主題を観客がどう受け止めるのかを想像することは正直、手に余る。
その上で、黒井さんが過去の(戦後に産声を上げた日本のストリップの黎明期をなぞることも含めて)歴史とそこに生きた人びとに想いを馳せ、また自分に先行する踊り子さんによる演目を解釈しそこに自身を重ねて踊るということは、他者との対話を諦めない態度の表明のように感じられたし、よりこの人を信じたくなる。

(4/26追記:3中ぶりの劇場となったなつよさん、前回の初ストで一目惚れだった白雪さん目当てだったけども、黒井さんや葵さんも刺さっていたようで良かった。好きな人が増えるペースが完全にオタクのそれで、なんか頼もしい…)

それと、この日唯一の初見だった松本ななさん。4回目のポールの演目が終わった後、この日も居合わせたうさぎいぬさんに思わず異常に良かったですよね、と洩らさずには居られなかった。2回目の同じ演目では服やブーツ?がうまくすっ飛ばせていなかったり、M3で盆で再登場するときにかぶり客に衣装がぶつかっていたり、観ている側としてもやや集中できない部分があった。のだが、4回目はM1でてんこ盛りに繰り出すポール技、M2の有り余るパワーをずっと放射しまくっているような立ち踊りにぐっと掴まれる。奇数回のアヒルの子の演目ではくるくる変わる表情表現を見てきていたけども、その分この演目のポールや立ち踊りにおけるマジの表情が逆に刺さってくる、という感じもあった。ゆっくり切られるエルのポーズベットでも、拍手が生まれるのに相応しい瞬間を場内がいつも以上に見守っているような数秒間があり、それは特段珍しいことではないにせよ、そこに居合わせるのは本当に尊い時間だった。

 

また、この日は黒井さんを中心によくわからない縁に導かれて劇場に集った同窓の人びとの一人として、終演後も盆の周りにたむろしていたら最終的に森さんに追い出される、という謎イベントがあった。謎イベントがいろいろ起きるな最近

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