5/1、2、5 渋谷道頓堀劇場

小倉遠征の記憶をなにかしらの形で留めておきたいので書かなければ、と思いつつ不安の強い日々が続いており、なかなか着手できていない。ひとまず、もうだいぶ前(5月中頃?)に下書きしてそのままになっていた、5頭渋谷の日記が残っているので、若干の書き足しを行いつつ投稿しておく。

5頭渋谷。毎日膨大な量にのぼる結城さんとのLINEログのおかげで、朧げになってきている出来事のあれこれも、なんとか手繰り寄せることができる。初日。通り道のロクシタンでさゆみさんにバレンタインのお返しを買ってから、10時半過ぎに整理券をもらいに。後からやってきたキンスキーさんもまたさゆみさんに渡すお菓子を買ってきていて、そのお裾分けをいただいたりした。入場後、下手で前後に座る(仲良し)。

 

さゆみさん、最初観た二日間は3個出しで、1回目と4回目はハ…ロの新作。
1頭のポラで、おすすめのハ…ロ曲を4曲書いてくれていたのをオフの間に履修したのだが、それらが全て演目に組み込まれていることにまず驚く。1頭の時点でもうこの演目作ってたんですか?と聞いてみると、これはちひろのポラをもとに演目作った、とか言い出す。思いつきでの適当な返しに定評のあるさゆみさんなので真偽は不明。ツーショの際には「(あたし)フェミニストだから」という言葉も飛び出すし、調子が良いことこの上ない(何の調子?)。演目ではアピケン(伸縮する棒、結城さんに名前を教えてもらった)や特注のさゆみフラッグを小道具に、エンパワーメント系ソングで固めた選曲もインパクトがある。3回目の『キッチン』が家父長制的価値観の下で役割を果たしつつひとりの時間に夢想にふける妻の生を切り取る、という設定があり(翌日、立ち見で再見して印象がだいぶ変わった、というか深まったのだが後述)、それに続くかたちで再び演じられた4回目にはやはり感じ入るところがあった。

そして今回、結城さんにどうせ渡邉さんはこの人好きになるから…と謎予言されていた、初見の小宮山せりなさん。『ab -』の対談収録のときに武藤さんから演目の話を聞いていて、またエアリアルで知られた方ということもあり、ここのところ気にはなっていた(4結の栗橋も行こうかだいぶ悩んだ)。1回目は4中東寺、須王愛さんバージョンで観たばかりの『バニー』。東寺でうさぎいぬさんが演目の歴史を教えてくれたり、須王さんバージョンでそのエンターテインメント性を十分に認識してもいたので、もともと演目に対する好感という素地が作られてはいたのだが。いにしえKぽの名曲イントロと共に現れたその人の顔つきが、ある人に似ている。見れば見るほど、かつてのパートナーの面影と重ねて受け取らずにはいられなくなっている。こうした、自身の歴史を構成している個人的なあれこれに紐づいた選好が働かざるをえない状況では、人間はもうどうしようもなくなってしまうと言われている。
2回目、既に引退され自分は観ることのなかった踊り子、あすかみみさんの古い演目『陰陽師』(追記:5月末、ご本人のTwitterでまさかの復活宣言!イルミナの最新号でもみみさんに関する対談が載っており、観に行くのが楽しみ)。般若のお面は嫉妬や怒りに狂う女、という、どこで聞き齧ったのかも覚えていない知識しか持ち合わせていないが、ここではなんらかの苦闘の末(必ずしも相手がいた上での、とは限らない)に狂気に取り憑かれる陰陽師という、演目の示す筋を素直に辿ったほうがいいのかもしれない。演目中、踊り手は衣冠を整えた陰陽師に規範的な正気の領域と、秩序を乱す狂気の領域とを行き来するつくりになっている。ある人の行いやふるまいをみてその人を善である、悪である、と二元的にとらえたところで、人の複雑さには整合性のつけようがないのであって、陰陽師という公職に就く己もまた一私人として狂気を内包する存在で、それに向き合っていかなくてはいけない。M6で照明が橙一色になると、せりなさんが纏う赤い衣装やリボンは色飛びして、人肌の色合いとまったく見分けがつかなる。こうした色彩の差異が失われた表現は、ないまぜとなった精神の混沌を示すような不気味さを感じさせるし、般若の面を再び被り、両手で扇子を掲げる身体とは逆のほうへ首を傾けて終わるラストも、心身の不調和を顕すかたちとして印象に残る。しかし、それは正気と狂気のあいだに身を晒しながら生きて死ぬ、決意としての強かさでもある。M2で、高く掲げた般若の面に取り込まれるようにして目をつぶっているせりなさんの身体の動勢は、M5で扇子を口に含んだまま手を天にかざすポーズーーすなわちブリッジと、形態的に韻を踏んでいる。恍惚、あるいは死のほうへと身を投げ出しているような身体のあらわれ(その筋肉質の見事さも含めて)に見惚れるし、こうした主体性の投げ入れはストリップを観ているとき、観客にも模倣的・同期的に生じ、わりと自明なものとして実感されていることのように思う。このブリッジに先んじて、フォーエイトをゆうに超えて切られる長尺のポーズと、扇子を使った小気味のいいシークエンスがあるが、これらの「溜め」も身体の動勢の押韻とは別のところでずっしり効いてきている。…と色々書いてみたものの、もう先述したような個人的な投影があるのと、アゲハさんを初めて観た『himico』もまた神事装束を纏った演目であり、そういう意味で(?ことさら自己の選好が働いてしまっているということは否めない(補足:5結の横浜ロック座でも再見したが、M6のオレンジ赤を飛ばす照明は終演までの本当に数秒のシーンのみに限られており、そのパターンも良かった。)
休憩でロビーに上がるとさゆみん食堂が開かれていて、なかなかの盛況。夕ご飯に森さんカレーをいただいた。4回目のさゆみさんの観劇を終えると、軍団の方が席を譲ってくれた(いつも思うことだが石原軍団の方々はかわいげがあって、応援におけるふるまいも見ていて快さがある。良いファンダム)。こうして、自分が道劇のかぶりで初めて観る踊り子さんは、せりなさんになった。

 

2日目、夕方まで用事があって2回目のせりなさんから入場。立ち見のエアコン直撃でお疲れの結城さんと、積もる話もあってほぼロビーで過ごす。

単独の演目としては前日そこまでヒットしてこなかった『キッチン』、立ち見でステージ全体を見渡せるような環境だったためなのかお互いの調子の要因なのかはわからないが、全く景が違って立ち上がってきた。そして新作と並んだときに『キッチン』で描かれる「妻」像の深みが、より際立って感じられるようでもあった。結城さんがM1(男性が異性装で母親として歌う)とM2(女性蔑視的な歌を女性が歌う)でジェンダー交差が起こってるんですよね、ということを指摘していた。家父長制価値観を受け入れていればおそらく何のひっかかりもなく観れてしまうステージに、こうした価値転覆の仕掛けを入れ込めてしまうのは、そうした微妙な襞の仕掛けが直感によっているのだとしても、ある程度意図をもってそれがなされているからだろう(新作の制作に関してはポラでそういう言及があった)。M3の歌詞にあるように「どこにでもある」ようでありながら、男性中心主義の世界においてはすっかりないことにされている「妻」その人の生活の風景描写への橋渡しは、M1-2のわちゃわちゃとした流れがあってこそ巧みになされる。ベッド曲のM4、どうしても黒井ひとみさんの『エスケープ』を思い出さざるをえないけども、『キッチン』では夫の存在がフォーカスされており、妻と夫の関係性は避けようもない主題になっている(『エスケープ』では踊り手は小さな子どもから「ママ」と呼ばれる人であり、パートナーの存在に関する明示的な言及はない)。その一方で夫は怨嗟の対象ではなく、またM4の歌詞とわずかに差し挟まれる(ほとんどかすめる程度だが)オナニーの描写と夫の帰宅後に悪戯っぽく捲られるスカートの場面を結びつけて、バカンス=不倫を想定する…というのもあたっていないように思われる。あくまで妻その人が生の無為を無為として受け止めている、言表しがたい本来的ともいえる時間の厚みがあり、ポーズののちには慌ただしく非本来的な日常へと戻っていかなければいけない。既婚の友人の話を聞いて作られた演目だそうだけど、こんな形の応援とも連帯とも呼びがたい、すごいものを作ってくるのはもう、何と言えば良いのか。この日から数日間は毎日LINEで結城さんとさゆみさんの話ばかりして、電車に乗るときも『キッチン』のM4ばかりを聴いていた。

5月5日、さゆみさん一人楽日。Tweet Operatorことキンスキーさんの情報から、前日さゆみさんがまさかの『ダンス』を出していることを知り、まさごでしばらく出さないって言ってたはずじゃん…とぷりぷりしながら劇場へ。ぎりぎり座れそうな番号をもらってキンスキーさん(今日もいる)と劇場前で話していたら、君たちすっかりニコイチに、と呆れながら東寺以来の篤里さんが登場。新宿のカプセルホテルのカスさなどについて喋り倒していた(ところでこの日、篤里さんと開演前の昼ごはんを食べたDooWopが、その数日後には閉店してしまったことを、Tweet Operatorことキンスキーさんのリツイートによって知る)。

『ダンス』、リメイクが施されているとは聞いていたものの、冒頭の衣装で意表をつかれた。照明が落ちた状態でドレスを着ているようだったので、そもそも何の演目を?と思っていたところにM1のあのムーディーなイントロが入ってきたので仰天する。幾分表情のニュアンスも和らいでいた気がするが、もうそれを取りこぼしてしまっている。
M5の冒頭、『ab -』に寄稿した私の論考を読んでくれた方にはお馴染み?の場面。10結渋谷で、自分の人生において、ストリップがどうしても必要なものであるこをと直観した瞬間。注視するというよりかは、もうただそのタイミングが来るのを受け入れるしかなくなっている私の前で、さゆみさんはフォーエイトの最後から2拍目、やはりそこを大きく外して指を擦った。ありがとう、瞬時に謎の感謝が湧き上がる。嬉しさに頬と涙腺が同時に緩んだ。
 

 

 

 

最後、こんな準クローズドな場で宣伝になるのかわからないけど『ab-』のリンクを張っておこう。編集は結城さんで、無料で4万字のス文集が読めます。

先日、この文集のさゆみさん論考を読んでスにはまったというKの者がいるという話を聞き、嬉しかったです。

 

 

ストリップの文集 『ab-(あぶ)』

 

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