6/5~6/6 A級小倉劇場

 遠征に行くこと自体は決めていたものの、小倉の日程が出てから宿を取るまでずいぶんかかった。出発まで10日を切ると金土、土日の旅程を見込んだツアーパックはさすがに無くなっていて、日曜に出発するしかなくなっている。

 この週末は九州北部には大雨の予報が出ていて、小倉に着いた日はその街並を楽しむどころではなかった。ペデストリアンデッキの南西端、マックの見える位置から降りると劇場はすぐ。意外にも複数居を構えている駅ビル施設、セントシティ、小倉中央商店街などのランドマークを横目に視認しながら、最短距離で劇場を目指す。11時28分に劇場着、傘を差して30分ほど開場を待つ。劇場に入る直前、こちらに手を上げながら歩いてくるキンスキーさんを認める。かぶりには座れなくても正面にでべそのような場所がある、と結城さんから聞いていて、上手の出島脇2席目に座った(実際観劇してみると、出島を頻繁に使い倒す踊り子さんは安田さんくらいしかおらず、適度な距離感)。場内後方には、きららさんとアゲハさんの風船スタンドが立っている。まだ少し先ながら、周年のこともなんとなく考える。

 3番、初見の安田志穂さん。立ち踊りではリズムに同期的に踊りまくるきららさんとは非対称で、素地にバレエがあるのかしら、となんとなく思いながら観ていると、ベッドに入ってからポーズがすごく独特。これは結城さんの言い方だけど、ポーズを決める過程で「動かす」ところは5結の横浜で観た真白希実さんに近いものがあった。その「動かし」にしても、立ち踊りの時点からほとんどずっと止まることがなく、たとえば曲の終わりでもそこでいったん動勢を切ることなく、腕をくゆらしたりしながら次の曲へと繋げていったりする。ポーズの「動かし」も、そうした安田さんの踊りのベーシックを変奏したもののような気がする。また、いくつかの演目で見られた、肩甲前部と胸の上部で身体を支える変形シャチにはかなり強い感興を覚えた。シャチは基本的には掌を床について身体を支えるものがほとんどだと思うが、重力に抗して身体を天に向けることのインパクトは、掌で支えているからこそ強く受け取れるのではないか。他方、肩と胸をついて手はだらっと地べたに投げ出している安田さんのポーズは、むしろ重力に抗するというよりは脱力、諦念、つまり墜落を想起させる。東寺で観たアゲハさんの『shiro』で、エアリアルシルクを絡めて二段階、上方から落下するシーンがあるが、このような空中演目以外でこうしたニュアンスが喚起されるのはちょっと驚きというしかない。これもやはり、不断に動的な動きからポーズに入っていく、という安田さんの踊りの特徴によるものなのかもしれない。『ラブダイブ』では、タイトルとなっている曲はもちろんのこと、いまや史上最も世界中で聴かれているであろうKぽ曲が流れる。白Tにジーンズで健康そのもののイメージを振りまきながら踊りまくった後のラスト、サビでジーンズを脱いでお尻が現れる。こんな世界中で聴かれていてみんな知っているヒット曲に合わせて、お尻が出てくるストリップ、面白…と今さらにすぎ、ごくごく当たり前にすぎる感想を抱いてしまった。

 4番目は上野、大和に続きなんだかんだ毎週のように会っているきららさん(次の週、栗橋でも会う)。1回目の『Pink』は過去最高に素晴らしい回。東寺ではマラボーや衣装を思い切りぶん投げるのに十分な天井の高さがあった。そのぶん投げのダイナミズムが、遥かに天井の低いこの劇場でも失われていない。それにしても東寺に続き、アゲハさんを追って遠征に行くと、そこにはいつもきららさんが居る。この香盤期間のインスタを観ていると、アゲハさんが自分にとってそうであるように、きららさんにとっても(当然、もっと身近な)重要な他者であるということが感じられてくるし、更に自分がさまざまな場所できららさんと時間を共有しているということもまたかけがえのないことであるのが、この小倉遠征ではありありと認識された。

  1回目終わり、無料招待券じゃんけんで私とキンスキーさんが二人勝ち残るという、漫画?と思う出来事があった。ほぼ左右対象の位置に座っていたキンスキーさんが即座に譲ってくれて、優しさに包まれてるわ〜、ときららさんが冗談を言うなか翌日分の無料券を受け取ったのだった(合ポラも初めて撮ることになり、ここで並び位置を適切に指示できなかったのだが、きららさんがうまいことアゲハさんを中央にしてくれて感謝)。

 この日、終演は日付の変わる直前。まだ弱まらない雨のなか、何度か迷いながら宿泊先に辿り着き、いまさら喫煙ルームを予約してしまっていたことにドアを開けて気づく。落胆しながらシャワーして寝る。

 2日目。アラーム前に目覚めて、まだ6時前か…と思って時計を見ると10時。想像以上に疲労している。町内を歩き回るのはそこそこに、と思ったが、平日だし今日は少しゆっくりいくのもいいかと思い直す。旦過市場の方、行ってみたかったカレー屋はいずれも(火事のためか)臨時休業。ネネチキンがこんなところにもある。偏在するネネチキン。道路を東側に渡ると、スリランカ料理やベトナム料理のお店が比較的集中している通りがある。小倉だけでなく京都でも、こうした外国料理のお店の情報は、相互フォローのセメントさんによるお役立ちツリーを参考にして探しているが、本当に各地で助かっている(前者は情報があまりに少なく、後者は情報があまりに多い)。

 北口側。古本屋に寄ったりしながら、これもセメントさんのツイートを参照して興味を惹かれたセレクトショップ「GUGU」目当て。音楽は何故かDevitaやビビちゃんがかかっている。そんなに広くない店内、欲しい感じのアクセやステーショナリーが多かったのと、スタッフさんがめちゃくちゃ喋ってくれて想定外に長居してしまった。前日観たアゲハさんの新作(後述)から連想が働いたこともあり、思い立って差し入れも一緒に選んでもらった。

 アゲハさん、『SR』のアゲ子さんも交えて、日によって出し物は三個だったり四個だったり。『pocopoco』は最近続けて出されている、キンスキーさんが大好きな演目(主な理由はオナベがあるから)。『PUIPUI』はいつの間にか正式名称が『ハートリングぷいぷい』になったのかしら。回にもよるが、東寺あたりからこの演目は泣くのを我慢する演目になってきている。

そして、小倉の3日目から出されているという新作は、『Turandot』。初日に1回、2日目に2回観た。

 原作はオペラだが、プレイリストを作ってみると気づくのは、東アジア各国の歌手による楽曲が並んでいること。M3はこのオペラに関わる楽曲だが、歌っているのは日本のロック歌手で、しれっとM4インストの作曲者と同名(漢字違い)繋ぎという遊びが入れ込まれている。M2は韓国アイドルグループが中国を拠点に活動を行う派生チームで、中国系のさまざまな国籍のメンバーが名を連ねる。M1は日本で活動している韓国ルーツをもつ歌手/ラッパー、M5は中国人歌手(7/15追記:台湾人歌手の誤り)と沖縄生まれの日本人歌手のデュエット。おそらく現代の日本人がこのオペラをイメージする際にも知らずのうちに染みついてしまっているオリエンタリズムのまなざしは、アゲハさんの選曲にみられる汎東アジア的な民族混淆の妙によって解きほぐされていく。

といっても、薄水色の衣装や、紙リボン?(7/15追記:ビニールリボン)が露先から垂れ下がっている真っ赤な傘(7/15追記:赤いのはリボン部分で傘本体は黒地)など、視覚的な面においては原作にあるオリエンタルなイメージをひとまずは踏襲しつつ演目が進んでいく。M1では何より、同一歌手の楽曲を使用している『あげゲーム』を想起させられる。エンターテインメント業界において成功を目指すこと、そして女性に対して常に向けられる、身体的な美的判断の視線に晒されつづけることという苦しみについて、歌い手は発声や節回しのスタイルをさまざまに変え(理想を謳う「他者」の呼び声、それに抗う主体、「正気じゃない」女の叫び…)ながら歌う。キャリアの長い踊り子さんに関しては連想が働きにくいことだが、二つのモチーフは何らかの芸事を職能とする人々にとって、その職能にあるあらゆる期間において切実な問題のはずでもある。ことさらこの楽曲では、女性の芸術的な創造力に関して見下す使い古されたレッテルとして、生理学的なヒステリー(=「正気じゃない」)という「他者」の呼び声が仄めかされてもいる。そしてこの見方は、冷酷な所業に没頭するトゥーランドットを恐れる周囲のまなざしにもそのまま重なってくる。A級小倉はホリゾンタルライトに比して前方からの照明が少ないけれども、盆ではなく奥舞台での立ち踊りが大部分を占めるM1において、それはより強く感じられる。前方を向くアゲハさんの顔には陰影が濃く浮かんでいて正面からは表情も判別しにくく、それはルッキズムに苦しむ歌い手の二重性をも際立たせている(無論この印象も、他の劇場で観る際には変わってくることだろう)。

 M2に入る直前オペラからの台詞の引用が入り、続いて登場してくる麗人はどうやら男性主体のようだ、と観客も承知する。この曲は中国語バージョンと韓国語バージョンの両方がリリースされているが、歌詞の内容には微妙な違いがある。中国語バージョンでは「天に選ばれた者」とまで自称してしまう尊大さまで窺えるが、原作で登場する求婚者の自信に溢れたイメージに完全に沿うものとなってもいる。

 暗転に続くM3、唯一原作に直接関係のある有名な楽曲だが、先述した男性ロック歌手のやたらと耽美的な歌声にずっこける。踊り子さんがときどき持ってくる一風変わったカバー曲のセンスの良さ、何なのだろう…ところで、M3-4ではエアリアルのシークエンスと脱衣が進んでいく過程にあり、踊り手は再び女性主体に戻っている。前述したように歌唱はM2に続き男性によるもので、またいずれの楽曲においても歌い手=求婚者が同一の主体として想定されているような含みがある。M4は楽曲名から、トゥーランドットがどこか求婚者の手の届かない場所にあることを示しているようにも読めるが、M3-4のシーンは求婚者の前で現に演じられているというよりは、彼の思い上がりの昂ぶりを提示する心象を表すものとして観客に開陳されているのではないだろうか。このように『Turandot』には、楽曲ごとに歌い手と演者のジェンダーが交錯しながらねじれを起こしていくダイナミズムがある。

 アゲハさんは立ち上がり曲の歌詞に注意を向けるようにSNSで発信していたが、要するにM5のテーマがこの演目の肝ということになる。ここにおいて、M3で求婚者が歌った「あなたは愛の予感に震えている…」という勝ち誇りは哄笑とともに打ち砕かれる(7/15追記:哄笑というほどのしぐさはなく、演目を通して女性主体を演じる場面では絶えず微笑を浮かべている)のだが、わざわざあの歌手のねっとりとしたカバーを持ってくることには、この世においておそらく毎秒毎秒、今この瞬間も繰り返されているうんざりするような「男の勘違い」への痛撃を、より劇的なものとする含蓄があるのか、とここで驚かされる。楽曲自体はいわゆる自己強化フェミニズム的な向きがあり、一直線的なメッセージや表現については立ち止まって考える必要があると思うのだが、他方で楽曲がG R L 「S」、と複数形で女性に呼びかける形であることには注目したい。そもそもトゥーランドットの所業は、騙されて死んだある姫に代わって世の男性に復讐することが目的だった。演目において、トゥーランアゲドット姫は思い上がった求婚者を(明示的に)殺しはしない。ただ、複数形のGirlsに呼びかけながら、あらゆる種の性差別が存在する社会に生きる女性に連帯しようという企てにおいて、姫は男の鼻っ柱を折り続ける。言うまでもなく、そこには『あげゲーム』に通底するシスターフッドが見てとれる。

演目の解釈を集中的に記述するためにここまでほとんど動作に関して言及できていないが、M5で鏡に話しかける歌詞が含まれているシーンの振り付けに関しては触れておきたい。M1の歌い手は結局、理想的な美に翻弄されることから完全に脱しきれてはいないのだが、M5においては鏡はもういらなくなった、と歌われる。そのためか、ここでの振り付けは鏡を覗き込みながら行われるのではなく、正面を向いてのリズムに合わせた音ハメになっている。その小気味の良さに自然と首を振ってしまう部分だが、この音ハメの動きには、自身の容貌に関する美的な価値判断から解放された主体の快活さが読み取れもする、のかもしれない。 

 ところで急に話題が変わるが、この日のポラでは意図せず、今まで撮ったことのないようなエロポラを撮ることになってしまった。エロポラの定義は人によって様々(様々あるのか?)とは思うものの…ちょっと詳細は書けないので割愛するが、私はその際アゲハさんが下ネタを振ってきてくれたことがすごく嬉しかった。今までエロいです 押忍、という感じの関わり方をしてこなかったし、(大まかな括りとしてだが)クィアである、とだけプロフィールに書いてもいる。そういう人間に対してアゲハさんが不用意にセクシュアルな話題を出すとは考えられず、これまでの関わりのなかで大丈夫、という判断がはたらきそうしたのだろうということが窺い知れた、ような気がした。そうして笑いあいながらエロポラを撮った(結城さんもいつか書いていたが、劇場において踊り子さんが社会で猥雑とされていることばを口にし、それに笑いあうときの心地というのは、本当になぜか爽やかである)のだが、帰ってきたポラコメがきららさんもこんなの書かないだろうというひどいやつで、ひとしきり笑った。

 3日目は夕方まで門司港を観光して帰ったが、どんだけさみしさに打ちひしがれながら海沿いを歩いていたかは説明するまでもない(お昼食べながら泣いたりしてた)と思うので、割愛する。

小倉に戻って帰る間際、時間が余ったのでGUGUに贈り物を選んでくれたお礼を伝えに行ったら、驚くような知らせをくれた。ここには書ききれなかった嬉しいこともあった。遠征では本当にいろんなことが起き、それ以前の自分に戻ることはできなくなる。

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