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15日道劇、16日ミカド、17日横浜、と8中を堪能。

11日のミカドは1ヶ月半ぶりのアゲハさんで、なんかガチガチに緊張してしまったものの、この3日間は調子よく観れた。観ることの調子の良し悪しは体調や精神的状態のバロメーターでもあるんだろうけど、結局そこが良ければ全部いいというか、最終的に観劇の感想って観てて調子良かった、よくなかった、とかそういうことしか言わなくなっていくのかもしれない。

さゆみさんの一人楽日、知り合いがまた大勢集結し、にぎやかな日。なかなかないメンツで神泉のファラフェル屋まで歩き、まさかの店休日で無駄足を踏んだりした。行程が無益であることが尊いような行き帰りの道中は、この夏休みを象徴する思い出になったように思う。翌日ミカド、トゥーランドットのつもりで変なお下げツインお団子を作るが、手こずっていたら着くのが開場ぎりぎりの時間になってしまった。虹歩さん、ポラでお客さんに「ミス○ルもいいけどさぁ…」とぼやかれた流れで?次の回に出された『ダンシング』が圧倒的に良く、続くあげこさんの『あげこのくらげ』もまたベッドが素晴らしく、完全に身体が充ち足りて3回目で帰ってしまった。横浜には構われたいムーブ全開で出かけて、望み通りにめちゃくちゃ構ってもらったのが楽しすぎた。さゆみさんやアゲハさんに対してもそうでありたいと思いつつも、せりなさんに対しては、恥ずかしげもなく自分の愚かしい部分をさらけ出せてしまえるようなところがある。ちなみにこの回はせりなさん自身も快調だったのか、新作のゴルフ演目で初出し以降はじめてだという「ナイスショット」が飛び出して、これまで観たことないくらいに劇場じゅうのお客さんがどよめくところを経験したのだった。

 

で、1日飛んで今日19日。四度寝をかましてしまった。朝からミカドに行く予定を次の日にまわし、原稿に関連する本(集英社新書から出た神谷悠一さんの新刊)を読んだり、のんびりしたりする日に充てる。こんなに寝てしまったのも、前日の「遠足」が思いのほか、重かったせいなのかもしれない。

 

結城さん・ちあき菅野カップルと4人で旅行とか遠足とかしたいね、と言っていたのが、ある日、巷で話題のハンセン病資料館の企画展行こうか、という流れになり案外早く実現した。資料館のある清瀬、名前は聞くけどもこれまでの人生において馴染みのない土地ではあり、遠足感はある。渋谷で菅野さんと歩いてるとき、「清瀬って昭島とかそういう方向?」「そうそう!」等、トンチンカンな会話もしてたくらいだし。雨の中、清瀬の街並みが大和より全然「街」じゃん、とか、商店街でかかっているおそらく外注であろう曲にツッコミ入れたり、資料館行きのバスに乗るまでははしゃいでいたんだけど、視界に次々と病院群が飛び込んでくると皆口数が少なくなりはじめた。そもそも清瀬はサナトリウムの街としての知名度が高い場所であることを、スマホを検索して知ることになる。

企画展は療養所での義肢・補装具・自助具といったツールの展示、使用する患者・回復者のかたり、またそれを作成する人とのやりとりの映像などなど、言語聴覚士として働いていた自分にとってはある種、隣接領域といえる内容でもあり入り込みやすかった。日常生活に困難をきたす障害の症状を持つ人との関わり、という点だけで見れば、ほとんど馴染みのあるものでもある。

他方で、常設展の展示のボリュームには圧倒される。入館時に手渡される資料は、小学校高学年くらいでも読める文体でおおきな文字で書かれていて啓蒙的ではあるが、ハンセン病という疾患の基礎的な理解の促しに始まって、そこに列挙される歴史的事実の記述はあまりに重い。なかでも、国や自治体が主導し隔離政策を強行していくなかで、一般市民からも社会的な偏見を持たれ、その偏見がもととなったさまざまな事件・できごとに関する展示については、個人的な関心領域と相まってショックが強かった。ハンセン病患者の子を、まだハンセン病に罹患していない者として「未感染児童」、と呼びなすこと。たとえば、昨今SNSで苛烈を極めるトランスジェンダー(とくにトランス女性)に対する差別的言説において、当事者についての理解をすっ飛ばして飛び交っている、口にしたくもない呼びなし方のことを思ったりもした。

常設展と企画展とを足早に見るだけでも、二時間弱はかかっただろうか。資料館には図書館が用意されている。資料館を訪れることは、要するに、知ることの第一歩でしかない。神谷さんの新書を手際よく読み終えて、若松英輔『霊性の哲学』を開く。その最終章では、ハンセン病患者・詩人であり、国に対する賠償訴訟で原告となった谺雄二について取り上げられている。

 

一つの焔がひとつではなくなり

幾千の 幾百万の火柱となって燃えさかまき

炎炎と日本の天を灼くとき

ぼくら病む者の

革命は起る。らいのこの鬼の顔は

微塵に打砕かれるだろう。

そこにはぼくらの新しい顔がある。

新しいぼくらの眼がある。

被害者は最後まで被害者ではない。

燃えあがれ!根かぎり

生命の火をかきたてよ。

巨大なぼくらの苦痛の火柱を創造れ。

 

谺雄二「病むならば」

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