9/22 9/24

9/22

 

今日会う人が夢に出てきて、目が醒めると、その相手からあまり眠れないとLINEが来ている。そういう、寝れないと思ったら相手の夢に出てる展開の平安時代の和歌ありそうだよね、と特に思い当たる歌があるわけでもなく返すが、源氏物語読み始めたら、実際出くわすことになるのだろうか。実践的読書?

 

先週の週末は浅草ロック座の『夢幻』1stを観に行って、座席の快適さに感心したり、高天井エアリアルどの席でみたらいいんか問題のヒントをもらえたり、やっぱ群舞のみかたって全然わからないな〜と思ったりして帰ってきて(それは翌日行ったアイドゥルの豊洲公演でも思ったことだった)、でも一番の成果は、源氏物語読んだほうが良いんじゃないか、という動機づけができたことだった。ここ1年半のあいだに、性実践において経験される実感の変質(かつてそれは大きな苦痛に思われていた)といえるような転機があり、それにやや遅れてストリップとの出逢いがあった。いずれも他者との親密性のたち現れ方(あるいは自身の欲望のあらわれと真摯に向き合うこと)に関わっていて、かつ性器中心主義的ではない「こと」の体感のありようという点に類縁性がある。

セックスやそれに限らない様々なかたちの性実践と、ストリップをみることとは、それぞれ別のしかたで、性や性愛、もちろん生について向き合う手段でもあるし、それに興じていることが生きている「こと」それ自体でもある。うまく出ないことば、肩から首筋のこわばり、あてどない視線、あるいは信頼を託すように投げかける視線、そしてそれらに対してまなざしがかえされる・交わされるときの慄きや悦び、といった、わたしの個別性がいやでも滲み出るふるまいのあらわれを、恥じることなく預けてしまってもいいと思える他者と在るその時間をただ在る以上に、価値のあることが、ほかにあるのだろうか。

 

 

9/24

 

仕事(クライアントがきつい)、実家(父の法事に関連して約3年ぶりに母親と会わなければいけない、必ず決戦が起こる)、天気(窓の外を見てくれ)、その他の人間関係(日常茶飯事)、さみしすぎる(人生の課題)、などの複合的な要因により気分が沈み始めていることに気がついてはいたが、アイドゥルのコンサート以降、週末さすがに外に出れていなさすぎるので、外で本でも読もうとなんとか準備する。『歎異抄講義』『アニミズム時代』と読みすすめやすそうな文庫を2冊、それから先週本になって出版された伊藤亜紗さんと村瀨孝生さんの文通集、『ぼけと利他』を持っていく。マルチタスクはてんでダメだが、読書という行為には複数性を持たせる人。

結城さんも仙台が雨で仕事がうまくいってなさそうで、毎日互いに一方通行でコミュニケーションが不在のLINEを交わしていたのだが、なんかさゆみさんの配信を観てたら随分元気が出たようだ。さゆみさんとのコミュニケーションには、たしかにそういう経験が幾度もあったなと思う。落ち込んでるときとか、それについて何か核心的な話をするわけではなくて、むしろ身構えるまえにさゆみさんの歓待に招き入れられ、よくわからないうちに救われてしまっている。世の中、会うなり元気?と聞いてくれる人ってそんなにいないよね、という話で一致した。

 

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