9/27 28 うえにょ

9/27

 

夢のなかで、父の葬儀(6年前)の喪主として遺言によりいとーさんが指名されていた。父の信頼が厚いようだった。結城さんとキンスキーさん、イワイさんやなゆこさんも参列するらしく、いとーさんに次ぐ脇役として夢に登場している。要するに、現時点の最大の懸案である2週間後の法事がトリガーとなっていて(たまさか戯画的人物の国葬の日でもあったが)、現在の自分の交友関係を反映した参列者を賑やかしとした葬儀が、父のものとして仮託されていたという内容。親、こと母が出てくる夢はすべて悪夢なのだが、今日だけはずいぶん自分の実存が前に出ているような気がして良かったので書き留めておく。

小倉にいる人とグダLINE(毎朝のこと)してたらやたら向こうで楽しそうにしているのと、また前日キンスキーさんにダル絡みして気分が乗ってきていた(最悪のツイッタラー)のもあり、ようやく身体が上野に行くことにチューニングされた感じに。個人的な理由があるにせよ、皆勤後に急に来なくなるのはファン活動のふるまいとしてあきらかに良くないに決まっているが、認知が歪んでいると人に言われないとまっとうな認識が立ち上がってこなかったりする。場内に入るとささきさんのポラタイムで、殊勝に角田版源氏物語を読みふけっているうさぎさんがいた。ひとしきり世間話してから下手中位置あたりの席に座ると、じきに健側の筋肉が張ってくる。難しい劇場。他方で『Tempest』のM3にさしかかると、そうした緊張からほどかれるように息苦しさが和らぐ実感がある。この人を観に来ていなかった一週間の自分は、ほぐし水に浸っていない状態のコンビニそばだった。しょうもないメタファーだが、なんかいまの身体の状態を言い当てているようでしっくり来たのでポラでアゲハさんはほぐし水です、と伝えるが、声に発してみるとニュアンスを相当取りこぼしているし、頭のおかしい客でしかない。実りのあるコミュニケーション方法の教授求む(;O;)

 

 

9/28

 

『ぼけと利他』、伊藤さんと村瀨さんの往復書簡が36通分もあるので、何日も読み続けてようやく終わりに差し替えかってきた。ほぐし水よりまともな言いようあるだろう、とまだ昨日を引きずりながら読んでいたら、なんかそれっぽい章に突き当たる。実践的読書?

村瀨さんは介護する体には、これまで関わってきたお年寄りの、生活の中で気を配り感じようとしているものがつくりあげた、ほんとうの姿かたちが堆積しているのではないか、という。伊藤さんはそれに応えて、しばしば道徳的な文脈で語られる利他的な行動(「身が動く」)の背後には「時間」があり、倒れている人がいたら人間の本能だから、とかじゃなくて、時間が体に堆積していることによって「身が動く」のだ、と考える。無論これはケアや利他といったことを考えるだけでなく、広くひととの関わり合い全般に敷衍できるだろう。私の身体に堆積した時間、人生においてすれ違ってきた多くのひとびととの交歓が、経験としてある。ある踊り子をみるとき、そのひともまた数多くのひとびとの思いや感じかたとふれ、気が遠くなるほど積み重ねられた交歓の堆積があり、それをからだや表情に湛えている。ある特定の踊り子に対して強く感興をおぼえるとき、そうした時間の堆積を通じた何らかの同質性に対し間身体的に共鳴する(メルロ=ポンティのいう「肉」のような)という面があり、そして他方、絶対に他なる人であることに対するさみしさをそのぶん強く感じるということもあるのだろう。

 

今日はごく簡単ではあるけど、黒のチャイナワンピにツインお団子合わせたトゥーランドット観覧コーデで上野に出かける。劇場行く前に、と思い御徒町のパルコでオールジェンダートイレの空きを探してうろうろしてたのだが、このときさるお方に目撃されていたらしい。上野や浅草では行動に気をつけよう

下手の昨日より一つ盆に近い席に座り、ささきさんから観られる。偶数回の『Touch』の話になるが、M3で楽曲の間奏にさしかかると、盆で正面を向いて動きを止め、目を瞑って息を詰めるシークエンスがある。観客はささきさんの息遣い、肩の上下といった呼吸のリズムに否応なく意識を向かわせることになる。世阿弥の「せぬ隙」?続くサックスの入る間奏で、再び動作を緩やかにしていきながら、衣装の前を開いて胸をはだける。それ以前のM2で後方を向いて下着を脱衣する運びもあるのだが、先ほど刷り込まれたささきさんの呼吸の間合いに場内が同期していきながら、正面向きで再び曝されていく肌のあらわれがめちゃくちゃにエロく感激。昂奮が醒めやらぬままに最高の歌詞がうたわれるM4に突入、紅潮した頬でゆっくりと切られていくポーズを観ることになる。最高。

3回目のポラで次はツーショに、と言われてどんなポーズするかも全然思いつかず、最終回になって現われたヨシタカさんに相談するか…と思って近づこうとしたら、足腰が弱すぎてちょっと椅子にひっかかっただけでずっこける。遠からぬ将来、劇場で転倒してそのまま死ぬ理想の終わり、劇場死を迎えるのではないか。上野の『Turandot』は小倉と同様、舞台奥の鏡がある。小倉は逆光による表情の陰影に見どころがあり、鏡面もあいまって楽曲の歌詞に沿ったお姫の二面性が強調されるようなイメージだったが、上野はM4始まりのスポット的な当て方が印象的で、またその後は劇場の奥行き自体の狭さもあってか、鏡に映るフロントサイドライトにも目が行く。こと上野では、端的に鏡によって狭いはずの場が拡張する。

ところで最終回のポラではアゲハさん赤いポラ着で現れ、赤黒チャイナのツーショにしてくれた。嬉しさで脳容量がゼロになり、とくにポーズに悩む必要もなかったのだった。

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