10月4日、6日の二日間、川崎ロック座へ。帰りは遅くなってしまうが、現職場から行きやすくて助かる。9中のニューアート・浅草ロック座に続き、ロック系列館訪問の割合が高まっているここ最近。
トップの広瀬あいみさん。個人演目を観るのは6頭川崎以来。日舞の演目をよく観るイメージだったが、偶数回ではR&B〜ヒップホップ曲の演目。終始、按配よくノリ切らない引き算の振付。そこから曲間なしにスムースなM3のベッド曲に移行していくのが気持ちよく、これによって立ち上がりに至るまでの煽情性が増すような構成。端正だなあと好感を毎回新たにしている。
お目当てのせりなさんは奇数回が『9周年作』。中央に下がったティシューが上手袖に引っかっていて、ダウ船(インド洋の交易船)のラティーンセイルが舞台袖から突き出しているようにも見える。が、衣装は和装で振付は快活な日舞。M2まではニコニコ踊っているが、脱衣を終えたあと、包まった「帆」から白い襦袢とレッグラップだけの姿で現れる。うしろ姿を観て『陰陽師』と同じ髪結えかしら?と思い立ったあと、写真集のトップに載っていた演目か、とふと情報が繋がった。後半は歌詞が耳に入ってくるベットも、ティシューを両手に持ちながら少しピルエットっぽさのあるターンを繰り返したあと、余勢を駆るようにしてティシューに巻き付いていくのも良い。
偶数回は『龍と牡丹』、浜野蘭さんの演目の継承作。プロジェクターに映された映像に沿って扇子と刀を扱う。たとえばM2の殺陣のシークエンスでは影絵に映る人間が打ちかかってきたり、せりなさんが刀を振るうと鮮血が吹き散る、といったように。演者は正面からみてプロジェクターの動きに沿っているように、音声を聴き取りながら所定の動作を行う必要がある。少し遅れれば遅れた、と演者も観客も気づくし、演出にに合わせて刀が鞘にうまく収まらなければ、なんとなく締まらない場面になる。他方、ある決まった振付を音に合わせて踊るということは、ごく一般的なことでもある。振付は普段、観客からみて正確さという基準で判断されることはめったにないはず(少なくとも誰も観賞の第一義には置かないだろうし、そもそも客にとって「正しい」振付は不可知なもの)だが、この演目では、プロジェクターの映像に沿うシークエンスの存在によって、好むと好まざるとにかかわらず踊りが正確性の軸でもって判断されやすくなる、という側面がある。それだけに、外したな、という部分があるとせりなさんもポラ中ずっと悔しがってたりしてて、良かれ悪しかれお客さんのいじりもそうしたポイントに集中しがちになる演目なのかなと思った。
ところでM3でベットに移行すると、アキラさんに負けず劣らずの汗の噴き出しっぷりが目に入ってくる。とくに目立つ背中の汗は、盆上で刀を扱う緩やかな動作のなかで、自然と着物がはだけることによって徐々に露わになっていく。汗の滲んだ裸のあらわれ、立ち上がりとともに顔や髪から水滴を飛び散らす清々しさがとても画になっていて、格好いいな…と思いながら舞台を見上げていた(栗、浜、浅草に続いて毎回かぶりに座ってる人)。
それにしても、せりなさんにはさゆみさんやアゲハさんとは違った入り方で親しみを感じていたが、生きているといろんな縁やゆかりが存在していることに驚く。ひとしきり話したあとのポラが案の定、糸目で撮れていたことに笑ってしまった。笑うと糸目になるひと尊すぎる!
10/5
昼休みにインスタを覗くと、小倉にいる踊り子さんたちの写真がストーリーに上がっていた。おそらくGUGUで買ったアイテムを交えたコーデで映っている。かゎぃぃ、あいたぃ(;o;)などと愚痴ってると、続いて半ば私信みたいなストーリーが上がっており、かわいこちゃん、などと呼ばれている。
私にとって、他者から何と名ざされるのが最もしっくりくるのだろうか。韓国語学校のクラスメイトがかつて、本来(出生時に割り当てられた生物学的性の関係性からいえば)ヒョンと呼ぶべき所をちひろオンニ、と呼んでくれていたが、オンニという語は日本語の「おねえさん」以上の普遍性を備えているような気がしてならない。
未知の他者に声かけられるとき主におねえさん、と名ざされることが多いが、声かけにとどまるならともかくそのまま会話を続けるとなると、さまざまな状況からそれを否定する必要が出てくる。たとえば、道劇以外の慣れ親しんでいない劇場の入り口では毎回女性料金の入場券を渡されるが、そのたび男性です、と自分で宣言しなおす必要がある。もちろん、必要な手続きではある。かといって、最初から男性です、と言いながらお金を渡すのも、それはそれで自分にとって受け入れられない出方ではある。ノンバイナリーやジェンダークィアを自認する人の呼称の問題が、劇場に来るような人たちの間ではほとんどなじみのないイシューであることは想像に難くない。他方、踊り子さんの中には、いい按配で屈託を汲み取ってくれる人も少なからずいる。単純に性役割のつきまとう呼称を避けるわけでもなく、まぎれもない私という人間の個別性を見定めた上でそう呼称している(はずだ)。性別二元論的な枠組みのなかでもがくことのつらさや寂しさは、反面こうした関わりあいによるケアが生じることと表裏一体でもある。
にしても、かわいこちゃんと名ざされることのこそばゆさ。嬉しくて死んじゃう…