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いつも同じトリガーに起因する不快の種を抱えていて、そのせいなのか天候のせいなのか、よくない夢で目が覚める。きのう前髪の縮毛矯正をかけたので、洗髪をいつもより遅めの時間にして、昨日の国立西洋美術館でのアクションについてLINEで話しながら外出の準備。17時に親と待ち合わせがあり、雨が本降りになる前に大手町駅に着く。食堂街を回って、天ぷら串を食べた。そこで辞去すれば何ごともなかったのだろうが、その後コーヒーを飲もうということになって改札に行く途中の、狭くてBGMのかかっていない店に入った。つい最近、けんかは家じゃなくて外(の飲食店)で起こる、という話をしたばかりだった。何かの話の流れで苛立った母から、自分が不幸なのは親不孝なあんたのせいだ、という呪いを久しぶりにぶつけられ、ほんとうに全てのことがいやになる。
親子関係の拗れは多くの人が一生のうちのどこかで経験するありふれたものだろうが、拗れの程度にも差があるし、なによりあらゆるケースが個別的で、場合によっては外的なアドバイスを適切に求めうるべくもないという難しさがある。こちらの立場から、あなたが感じている劣等感に自分はいっさい関わりがない、と真正面から言って全てが解決すればいいが、そんな楽な話ではない。母親が(無自覚ながらも)どんな言い草で子供を縛りつけようとしているのか、いくらでもここに書き立てて非を鳴らすことはできるが、それもまた意味のないことだ。
母と話し合おうとしても、「この人は自分の話に関心をもって耳を傾けてはくれないのだ」、という思いに結着することが昔からの常で、それは長じて、私の他者関係において不快を感じたり落ち込んだりする即時的なトリガーともなっている。母親は母親で、自らの人生の不能感を周りの他者のせいだと感じる思考ルーティーンに向き合う必要がある一方で、私は私の、おそらく大元としては母親との関係において生じた、他者関係を難しくしている先入観——より直截にいえば勘ぐり深さ——のこんがらがったものを、少しはほどいてみる努力が必要だろう。ともあれ、しばらくこの気分が持続するだろうことを思うとますます憂鬱になる。希死念慮とは違うが、何をしても意味ないし死ぬか、という気分が常に降ってきている、マンガ的表現でいえば自分の上にだけ雨雲が浮いているような。

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