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朝のヘアセットとかメイクの時間に、MLBのダイジェスト動画を観る時期になった。動画は流しておけば観れるが、今月は本をあまり読めていない。
最近読み終わった本二冊、まず碧海寿広『入門 近代仏教思想』(2016)。明治〜昭和初期、井上円了から倉田百三まで五人の仏教思想を中心に、近代日本思想における仏教のプレゼンスとその教養主義的受容に光を当てる。彼らの生涯の概略を示したあと、碧海さんがその思想家になり代わるようなかたちでその思想を語り、前後の章と絡めながら総括に至るという変則的な構成で、ちょっと面食らった。この時期の日本人の考えかたには、あまりに素朴ではないかと思うような側面が多々ある。とくに仏教と戦争協力、という総括の話題に入っていくと、その言説(ここでは暁烏敏の議論が紹介されているのみだが)の牽強付会ぶりに呆れるしかなくなる。全くの余談だが、ナム・ジュヒョクのような塩顔がタイプで、碧海さんは爬虫類顔寄りではあるけどもやはり塩顔の系譜で、新書のカバー裏を見てイケメンだなーと思っていたのだが、結城さんにはまったく理解されなかった。
もう一冊は船木亨『倫理学言論』(2024)。船木さんは去年出した『いかにして個となるべきか?』が面白くて、続作として期待して読んだ。ただ論旨を追うのがかなり困難で、何日にも分割して読んでいるうちに個々のトピックについての議論も忘却してしまう始末だった。終章では、前著に続いてマナーについて短い言及がある。船木さんは、集団の危機においてマナーを改変し、善悪の価値を倒置しようという動きについて、その原動を、集団に帰属しようと望む、排除されようとしている数多の身体の「さびしさ」、に求めるが、今ひとつわからない気もする。むしろ、インターネットのさまざまな場所で目にするのは、絶対的に善なるものに依拠して集団の規範について強弁し、よそ者を排除する人たちではないか。その「さびしさ」についてはそれなりに納得もできるが。
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国立西洋美術館に遠足の日。一番の到着だが、おそらく一番寝れていない(腰痛のため)。ロダンの像かなんかの陰で日差しを避けていると、ちあきがやってくる。続いてあゆちゃんが来て、あたりを見回したら珍しくビリで到着した結城さんが、こちらにスマホカメラを向けていた。
来る動機のひとつには、もちろん宇佐美さんが参加した遠藤麻衣さんの展示があるのだが、それ以外にもネームバリューのある作家が並んでおり、それなりの真剣さで周回する。とにかくテキスト量が多い。関心のある小田原さんの展示や、弓指さんの骨太な聞き取り/絵画混合のインスタレーションなどは面白く見られたが、飯山さんの背の高いインスタレーションを端から端まで見終わるころには疲れ果てて、ちあきとあゆちゃんと三人でベンチに座り込んだ。階段を下ると、白い布で覆った場所に遠藤さんの展示の案内がある。しばらくは立って見ていたが、三人でふかふかの回転盆に座った。正面の映像を見るには体を傾けて振り返らないとといけないけれど、このほうがずっと見ていられる。回る速度は、道劇よりもゆっくりだろうか。劇場で動く盆に乗るということの気分に思いを馳せるよりも、友人と三人でここに座っている経験の良さ、のほうに意識は向いていた。
その後、以前もみんなで行ったことのある、リーズナブルなガチ中華のお店に入ってランチ。帰りのエレベーターで、小さな白髪のご婦人が途中から乗ってきた。タッチパネルの前に入ってそのまま前を向くかと思いきや、われわれ四人のほうに向き直る。結城さんがこないだ韓国の人に韓国人に間違われて、と話しているとき、結城さんの顔を確認して?うんうんうん、と自然に会話に混じって頷いていた。一階につくと、何事もなかったようにべつの方向へ。四人の遠足の最後にどういうわけかご婦人を含めた五人の時間があって、それがこの一日を忘れがたくする。
腰の痛みが増してきたので、早めに横になっている。