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岐阜駅の中央口を出て、杖を手にした病身のいとーと、デンマーク帰り後の初スト活で、今日もまさご行きを決めたハムさんとをすぐに見つける。名古屋で乗り換えの東海道線を待っている間に、即席でお花見をすることになったのだった。おにぎり屋さんで、二人が予約してくれていたお団子を受け取り、あと夜に備えておにぎり四つを購入。ところが、駅前から金神社の公園まで、繊維市と道三まつりの会場が続いていて、見たこともないような大混雑。花見の場所はなかなか決まらない。
結局、少し足を伸ばしていとーの思い出深い場所だという公園に行き着く。ある枯れ木の下に、いとーが腰を下ろす。二十年か三十年か前、この木の幹に、砂を両手に掬って軽く投げ打つと、少し余韻を引くようにざざあーっと、波の音がしたのだという。ハムさんと私もしゃがんでその音に耳を傾けるが、乾いた石が木を打擲する音が響いただけ。何度繰り返してみても、どう聞いても波、ではなさそうで、三人で笑い合う。少し離れてカメラを向けていると、地面に映った枯れ木の陰が、いとーの周りを覆うように広がっている。みんな、色々なことがある。友人であれパートナーであれ、家族であれ、いくら頻繁に話し込み、理解しあえていると思い込み、また、いかに深いふれあいや交情があろうと、本当に他者のことなんて何ひとつわからない。そうだといえば、そうだ。しかし、このように偶然が重なり重なって、友人の幼いころの思い出が詰まった場所をともに歩いていると、他者と何ひとつ分かち合えないというのなら、この時間のあまりにも良き心地はなんなのだろう、と思う。

そして、まさご座の素晴らしい居心地も、改めて実感する。新たに加わった本舞台上のムービングに大きなミラーボール。そして、音響面では低音域の重さの挙動に明らかに以前との変化を感じる。前回は帰りがけに少しだけしか喋れなかったスタッフの鳥井さんと、質問攻めのようになってしまったが色々と話すことができた。
牧瀬さんのベッドで、盆が再び回っていることへの新鮮な感動からスタート。白雪さんの新作、そんな音響設備下でファンキーなM1のイントロが鳴り始まるだけで、もう最高の気分に。M2冒頭、口笛とギターのカッティングに沿って脚と首でリズムをとる程度の動きだが、四つ打ちのキックが入りだすとM1のグルーヴが滞留し続けていていることがこちらにも実感される。どれもダンサブルな選曲(原曲をダレのこない塩梅にカットしてもいる)ながら、基本重いビートと軽めのビートが交互に出てくる中で、白雪さんはビートを拾いに行くのでなく、うねりを楽しむかのように自身の踊りのリズムを絡めていくよう。またベッドでは、『二周年作』のボールライトに続いて抽象的なイメージの扱いにセンスを感じさせる道具遣い。タンバリンを叩くシーンでこの劇場ならではの演出がはちゃめちゃに楽しい『デュオニソス神話』まで含め、いい意味で手のつけられないスーパースターぶりだった。
アゲハさんは新作の初出し。M1-2、二曲続けてトラップR&Bの立ち踊り、良い。客席の反応を楽しんでいるのか、窺っているのか、ともかく視線の向けようからは初出しの振付を踊り切ることに対する強い緊張は感じられなかった。M3、意外な、個人的な思い入れのある選曲。サウンドシグネチャーが流れて、ストリップを知らなかったころの断片的な記憶が立ち上がるが、すぐに注意は目の前のステージに引き戻される。上昇志向、ボースティングの詰まった前のめりのラップと、限界まで高い位置で展開されるシルクの相乗効果。懐かしい曲も、なんだこれと思っていた曲も、ストリップ劇場では目の前にあらわれる身体が中心に織りなすステージとともに、新たな記憶の像を結び直す。涙が出そうになるのは過去が懐かしいからではなく、関心のある他者が自分の生をほどき直し、新しい渦や陰影をもたらしてくれるからだろう。初出しを祝福するような暖かいオープンも良かった。
四回目『ツィゴイネルワイゼン』。体幹を吊る二度目の回転前、少し襦袢の肩をはだけるディテール。立ち上がり後の無音部分、正面を振り返るまでの時間は概算で30秒以上にも亘った。個々の劇場によるアプローチの変動はあるのだろうけど、アゲハさんのゆっくりとした体動の間も、鳥井さんが盆を回し続けていて、とても好みだった。機械である盆に対して、どういうわけか有機的な質感をおぼえることがある。
今日はほかにも、ここに書ききれない沢山の出来事があった(もちろん日記は、日々の出来事すべてを記述するためのものではないし、そんなことは不可能だ)。何もかもがうまくいったわけではないけれども、それでも、今日が岐阜で過ごした一番いい日だった。そういう確信を伴う充実があった。

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