10/30-31 AQK ほか

東寺に向かう新幹線のなかで書いている。冬に近づいて荷物がこれまでの遠征より多くなり、乗り換えるたびに手荷物の個数を数えてから降りる。小倉でなくした、劇場のスタンプカードが全部入ったハンクォッカのポーチは、受付に届けてくれた人がいた。タッチショーの時に外して行方が分からなくなった指輪は隣の人の座席の下に見つけたが、結局ホテルに着くまでにもう一度なくした。どういう人間や

 

今さら、といってもつい二週間前のことだが、小倉は想像していた以上に楽しかった。関東にはほとんど乗ることのない松本さんの、完全に良い意味で前のめりの勢いに引っ掻き回され、安田さんのポーズベッドを成形することへの拘りなき流動に改めて新鮮な感嘆があり、最近届いたというアゲTでオープンに現れる夕樹さんとタッチショーで幾度かアゲ話をしたりした。

せりなさんの『9周年作』は、ベッド〜立ち上がりの照明に、川崎のギンギンの目つぶしでは得られなかった演目の肌理が感じられて、かなり込み上げるものがあった。『龍と牡丹』も、映像との同期のチューニングにフォーカスするようないわば修練的な時期は終わってて、表情にせよポーズの力動の現れにせよ、観ている側も以前とのニュアンスの差異を味わいながらじっくり観ることのできるような余地があった。そして踊っているのを見ているのが爆裂に楽しく、構われればそれも嬉しい『ゴルフ』。M2、こういうしゃかりきな振付けをする人なんだな。リプ欄で「せり坊」と呼んでるお客さんが一人いるけど、まさしく「坊」であるようなときがあるわね…と見ていて嬉しくなってくるダンス。

それにしても、陰気な顔つきと佇まいにも関わらず、今回の小倉ではずいぶんと見知らぬ人に話しかけられた。何を言いたかったのかよく分からないすっとぼけた内容もあったり、スト3回目という留学生の院生さんが話しかけてくれたり、あとジェンダーに関する、いささか失礼とも思える質問を投げかけてくる人もいた。今思い出してみると、二日で6人もの人に話しかけられている。そして、だれひとり名前は分からないままという地元客どうしのコミュニティ性の強さも感じる一方で、見知らぬ者同士の、いい加減なようでありながら、ささやかな厚情も確かに感じさせるコミュニケーションにもひらかれている場にあることの、清々しい気分も味わった。

 

翻って、結城グループの交流のあり方を外から見て、そこにある種の新しい男性性に基づく共同体性を見出すということもあるのか、とある人の所感を読んだことを思い出した。昨今の、いわゆる男性性本ではほぼ自明のこととして言われている「男性同士がケアしあうことの困難さ」も意に介さず、コミュニケーションの中でなんとなしに互いをケアし合っているような。ただ、こうした親密さのあらわれは、ブラザーフッド的な「連帯」とは実際にはほど遠いものだろう。互いに敬意といくばくかの好意を持ちこそすれ、実態としては各々が劇場で各々のセクシュアリティや快楽との向き合い方なり、抱える問題系との向き合い方なりと具体的に関わっていくそのありようが、交わったり交わらなかったりする場が生じているだけで(当然ながら人間関係も四者四様に放射している)、この関係性が「連帯」めいたものであったことは一度もないのだろうな、と。

 

小倉の直後、ある関係性の唐突な潮目を迎えてどうしようもなくなっていたが、今まで幾度となく経ているはずの喪の作業の期間の迎えかたということに、都度未曾有のことのように戸惑う。劇場に来て、ただ座っているだけでも、きっとそれは喪になりうるのだろう。

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