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高井ゆと里さんと飯野由里子さんの、それぞれの翻訳書の出版トークイベントが視聴期限を迎えそうなので、出かける準備をしながらアーカイブを見る。これまでのトランスジェンダーを語る歴史においてそうであったように、訳語が数年後には変わっているかもしれないと考えながら飯野さんが術語を繊細に扱っていることとか、『トランスジェンダー問題』の原著は編集者側の意図に沿った章立てになっているのではないか、といった高井さんの指摘とか、翻訳者として原著とどのように向き合ったのかというお二人のお話が色々聞けたのが収穫だった。『ホワイト・フェミニズム』は立ち読みしてみたら、いわばプルタルコスの『対比列伝』のような章仕立てになっていた。つまり、アメリカのフェミニズム思想史における白人中心的なフェミニズムの潮流に位置づけられる論者と、それに抗する議論や活動を展開したインターセクショナルな視点をもつと捉えられるフェミニストを一人ずつ対置して紹介していくという見立て。その点は、飯野さんが本書のリーン・イン・フェミニズムの章でオカシオ・コルテスを後者の代表としてしまっていることも含めて問題含みだと批判している。そしてその批判は、飯野さんがなぜ最後に、どういった識者の本を読めばいいのか、という素朴な質問を取り上げて問い直そうとしたのか…特定のスターを仕立て上げて、その人の主義主張をただ鵜呑みに信じることにどれだけの意義があるのか、ということの裏付けにもなっている。

さらに、ペースが落ちている韓国語の勉強も終えた後、シアター上野へ。入場すると箱館さんのポラが終わるところで、そのまま『ヘアスプレー』へ。大和でもそうだったが、立ち見で身体が開いている状態で観られるとがぜん楽しい。一周したあと、キンスキーさんと近場の羊肉料理店、というよりは中国東北料理のお店へ。中国東北部の朝鮮語らしき話し声も耳に入ってくる(例えばチンチャがチンツァ、というように)。串が自動で回って肉を焼いてくれる謎の装置が、キンスキーさん側の串を全然焼いてくれないのを面白がったりしながら料理を満喫。

 

前の日に結城さんとある友人の話をしていて、「おいしく」してくれる誰かに出会うこと、あるいは出会わないままにあること(の偶然性)、みたいな話になった。自己に閉じた資質、あるいは思考方式、それらを反映して外部に向けられた(男性により多くみられる)「硬い」ふるまい。必ずしも根本的な転回をもたらすわけではないにせよ、それが確かにほどかれてある(「いる」というよりは「ある」、だ)、という感覚を得られる契機が折に触れて与えられるような、他者との関係性。それはほとんどの場合、友達であったり、パートナーであったり、仕事仲間であったり、基本的には一定以上の親密圏内のうちにある他者との、継続性を持ったかかわりのあいだで生まれるものだろう。残念なことに、自分は一定以上の親密圏にある数少ない他者すらもうんざりさせることに、とても長けている。それはこの先もきっとずっとそうなのだが、劇場は、そうした自分であっても、世界に対するこわばりがほどかれていく経験に於いてあることを感じられる、数少ない、というよりはほとんど唯一の場所だ。

最終回のポラ、普段そんな話すほうでもないのに珍しくポラに並び直したりして、アゲハさんとしょうもないやりとりをした。たわいもない話をしていただけなのに、こんな好い時間あるだろうか、と思った。いつも身体がほどけるままに話せたらいいのに。有難くて、チップを渡そうと思ったら羊肉店でお金を崩すのを忘れていたことに気づいた。

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