4/7道劇 5/2、4−5道劇

4/7

前回の小倉楽日で不本意にも獲得してしまった招待券を、日本を発つ前に全国の劇場を巡りたいというハムさんに譲ることに。道劇で待ち合わせて、マコさんとゆらさんのチームショーを観た。
ベッドではマコさんがタチで、異性愛的な記号を含んでいるようにも思える絡みを見せる。のだが、ゆらさんが口淫する間に、マコさんが服をはだけながらその場を離れてしまう。そうすると、ゆらさんが口に含んでいるものは文字通り宙吊りになって意味が横滑る。また、騎乗位になる場面でのマコさんやゆらさんの動作自体は、明らかに男性器をあるものとしてなされる動きなのだが、全く触れ合うような位置にはないふたつの女性器をよそに反復運動が繰り返される。むしろ、ゆらさんのスレンダーな身体と、マコさんの特異的ともいえる肉づきをした身体の折り重なりがつくる肉の質感が、異他なる存在感と同質性とを共に示しながら迫ってくることに感動を覚える(この後の立ち上がりでは、どちらが下だったか覚えていないけれども、片方の太ももの上に脚を委ねるようにして支えが作られた後、ダブルポーズが切られる)。
そして、この逢瀬がいっときの夢だったかのような仄めかしがあったにも関わらず、エンディングでは申し訳なさそうに生き返っているマコさん。ソンブレロが異様にマッチ。生と死の境すらもどうでもよくなって大団円を迎える。ジェンダーと死生観という、人間にとってきわめてエッセンシャルでありながら触れがたくもある事象を、遊ぶように自由に越境して、かつ信頼できる手つきで祝うような演目にしてくれて、本当にありがたいというほかない。

3回目のマコさん『アオハル』まで観た後、浅草の飲み屋に移動。自分の前職が、現実にすれ違っていてもおかしくないくらいに近接した領域であることに改めて驚く。またハムさんと話すと、クィアやノンバイナリーには広くSNSで言われているようなかたちで連帯へ向けた主張や運動を行うのとはちがった、色々な「やっていき」のしかたがあると思わされる(月末には、ノンバイナリーが安全が確保された場で脱衣できる会を行うという)。雨に濡れたいというハムさんに傘も貸さず笑いながら歩いていたら、田原町を越して蔵前までたどり着いてしまっていた。

5/2、4-5

GWは去年と同様、道劇に通う。今年は正月に続いてのアゲさゆ。2日は蔵前で仕事の用事を終えてから立ち見で、4日は小倉に遠征するときより早い電車に乗って確保したかぶり席で、5日は開場時間に合わせてのんびり、といろいろな楽しみ方をする。Twitterでさゆみさんが適切すぎるタイミングで『ab-』の宣伝を打ってくれて、ありがたいことに自分の手持ちぶんは今週で全て捌ける。東寺ぶりのさとしさんがサイン用に二冊目を買っていたり、髪を切ってさっぱりした三谷さんが感想書きます、と声がけしてくれたのもうれしい。

小倉、まさご、東寺…と、このところ西でばかり会っているアゲハさん、久しぶりの渋谷。
『10』は東寺のスケールで観ることの説得力が確かにあって、今回は直近目にしているそれを念頭に観ることになる(パン劇か否か、という差異も含めて)。M2、一般的なそれの4倍の長さはあろうかというクソ長ビルドアップ(EDMで盛り上がるところの前説部分)で必然的に手拍子が伴うが、舞台上で起こっているのは暴力的な手段による触角や羽の喪失という、非常にトラウマティックな外傷のありようでもある。M3-4の同一日本人歌手の選曲は前半とは対照的で、エアリアルのシークエンスと立ち上がりの(楽曲を含めた)メッセージ性も、そのぶん際立つ。最新の周年作『Tempest』は立ち踊りにしろ立ち上がりにしろ、そうした意味的な了解を喚起される部分にリソースを割かれることがあまりなく、それゆえ意味を介さない身体の力動のすさまじさ自体に目が向きやすい…ということはある、ような気がする。とはいえ、4日の2回目は演目を熟知した森さんによる明瞭な照明も手伝ってか、東寺で観たのに劣らない充足感を得られた。
そういえば『LOVE』のエンディング前、フープ上で脚で形作られるVの字。要するに指ハと同じ原理でハートを示す表象で、フープとずらす形で二重のハートを送っている…とずっと思っていたのだが、これは自分の勘ぐりだったようだ。ただ、股が開かれてあるその在りようが直観的ににハートとして表れてくるというのは、それがアゲハさんだからこそなのだろう。

さゆみさんは旧作、『モーターサイクルダイヤリーズ』がとんでもなく素晴らしかった。
しぶや、と描かれたスケッチブックを掲げるバックパッカー、M2ではどういうことか海(盆が岬に模されている)にたどり着いているが、細かいことは気にならない。M3、「旅」の有名曲。空っぽになったジンジャーエール(歌詞から類推される)の瓶を反対方向の舞台裏に向けて転がすと、スーツケースを引き盆にゆっくりと歩いていく。何かとっかかりがあるわけでもない盆入りなのに、ステージにあるさゆみさんの存在感の肌理が全く変わってくる。旅、というテーマで六花さんの引退週にふさわしい演目でもあり、また本人によれば、さゆみさんが現役時代最後のステージで演じたのもこれなのだという(と思いきや、どうやらさゆみさんの思い違いらしい、という話も伝え聞く)。そういうコンテクストがある。スーツケースに腰かけ、麦わら帽子を目深く被ると、物思いにふけっているような口元が垣間見える(『DJさゆみん』のベッドでも腰を揺らしながら、目深くかぶったキャップに手をかけていたのが想起される)。もう君に会えない、という歌詞に合わせて本舞台に向けスーツケースを押し放ち、一歩盆から出て、また正面を振り返る。やはり、ある潮目を起点とする旅立ち、ということが一義的に示唆されているように思えてくる。
一方で、M4の立ち上がりで屈託なくエルとブリッジを切るさゆみさんは、明らかにこの旅を「良きもの」として楽しんでいる。身体つきも相まって実に開放的に見えるエルを切ったさゆみさんの手には、白いつば広の麦わら帽子がある。下手の柵前で見ていたら、その麦わら帽子を通して対角からフロントサイドの照明が、まるで旅先の陽光のように差し込んできた。エルのあと麦わら帽子をいったん被り直すと、つばが反動で揺れる。その帽子の波打ちが、あたかも風を受けているように実にいきいきと見えるし、そのまま大きな軌道で空を掴むように手を振りかぶり、盆にそって半円を描くように脚を動かすと、ポーズから続いているのびやかさのイメージが重ねがけで強まっていく。
ある大きな潮目を区切りとして旅を終えることもできるし、そこを旅の起点とすることもできる。また、あらゆる時点が旅の最中なのだということもできる。偶然に、オルタナティブな道がひらけていくことの連続。旅とはそういう意味で生そのものといえるし、劇場で踊り子さんの踊りとともにあることを通して生きられる時間のきらめきに、私たちは何度も何度も胸を打たれてきたはずだ。さゆみさんの白い麦わら帽子のつばのすき間を通して垣間見たのは、自分が劇場で受け取ってきた「良きもの」の眩しさそれ自体だった。4日目には、ましろねーさんが(お勉強かなにかのときに)やってたから、というふわっとしているがぐっとくる理由で、ブリッジの後に帽子をかかげながらのスワンが追加されていた。

新作の小料理屋演目。演目を通してなにかが起こるわけでもなく、選曲もそういう雰囲気だよ、という合意形成の役割を果たすものにすぎない。のだけど、ざっくりと仕込みを行うマイム的な振り付け、舞台セットの提灯のスイッチを脚で踏んでつけるところ、また暖簾の上に映る横顔にしても、観ればたちどころに芸に引き込まれざるをえない(いずみさん投光の回では、M3でこの暖簾に本舞台下部の照明を当てて紋章風の模様を浮かべる趣向がこらされていた)。こうしたディテールが示された上でお酌をしあう、というシークエンスもいい。お猪口や徳利を受け渡しあって、一口あおる。他愛ないおままごとだが、こうした劇中劇的展開に投じられることは、たとえばアゲハさんの峻厳な裸体に直面することと同じくらい、他性に敬意を抱き、自らを世界に委ねる契機でもある。
そしてベッド〜立ち上がりの間、あからさまに「脱ぐ」という動作がない。盆に持ってきた椅子に座って脱ぐ足袋くらい。着物は帯をちょっと緩めて胸をはだける程度だが、すごくさまになる。球種が多いタイプではないだろうし、ぱっと見で特定の動作がすごい、という類でもなく、ともかくセンスの天才性にいちいち驚くしかないようなことの連続。こんな人がストリップの世界に出会わせてくれたのだと思うと、劇場にどっぷり浸かる人生になってしまっているのもしょうがない、と諦めがつく。

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